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昨今教育事情について(1)―――「体罰」

             問題は 「自律・自尊」 ではないのか?



    このところ、「教育]とりわけ「学校教育」のことに話が及ぶと、ろくな話はありません。[いじめ」、「体罰」、「学力低下」、「就職難」等々、ウンザリすることが実に多い。未来を語る上で、子どもたちの教育こそが最大のポイントであることは古今東西変わることはないはずなのですが、どうも最近の学校は「生徒たち」そして「先生たち」共に「元気」が出ない状況に陥っているようです。 そして、これはどうやら学校だけの話ではなさそうで、おそらく、一部のエリート層は別なのでしょうが、「一般国民」全体に浸透している傾向といっていいのかもしれません。一体全体、どうしてこんなことになったのか。そして、それを克服する道は何処に見出されるのか。そんなことを考えながら、まずは、自ら経験したことを思い出しながら、「体罰」の問題について考えてみたいと思います。

    現在、「体罰」の問題は、大阪市立桜宮高校の事件を直接的な契機としていることもあって、主に、「スポーツ」における指導上の問題として議論されているといってよいでしょう。そして、この「スポーツ指導上の問題」についていえば、決着はもうついたといっていいのだろうと思います。あの桑田真澄氏の説得力ある見解を否定できる人はまずいそうにありません。(http://www.asahi.com/edu/articles/TKY201301110314.htmlなどを参照してください)。そして、そのことは、昨日のわが川内優輝選手の活躍をはじめ、国の内外の具体的状況(結果)を見ても反論の余地はなさそうです。ただ、私たちがここでなさねばならないことは、桑田氏が、「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰であること、そして、「体罰」は「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」と極めて簡潔かつ正確に指摘した構造そのものを、日本の学校教育のより広い意味合いにおいて理解し、考えることであろうと思うのです。


    ところで、私は、中学1年のとき、そうした体罰の「標的」になった経験があるのです。私たちが属したクラスの担任はTという国語の教員でしたが、このTの暴力は半端なものではありませんでした。(年度初めに家に遊びに来いといわれその時見せられた写真から判断すると)陸軍の将校上がりらしいこの教員は、宿題忘れから始まって、ありとあらゆる理由をつけては「体罰」を繰り返していました。理由は忘れましたが、クラス全員が長い竹の指示棒のようなもので頭をたたかれたことも記憶しています。

    そして、クラス中で一番多く殴られたのが、恥ずかしながら、この私だったのです。「○○!65回目!」とか、カウントされながらの「体罰」でした。理由?なぜでしょう?反抗的だったのでしょうか。なつかなかったからでしょうか?分かりません。理由はなんだったにせよ、中学3年生の時、自習監督に来たTが、教卓の前に立つや否や、最後列に座っていた私に向かって、「○○!俺が来て悪かったな!」と、歪んだ顔つきで凄んだことを憶えています。いやはや!

   ところで、このクラスでは、担任の「体罰」が影響したかもしれない生徒間の暴力事件で、2人が血を流しています。まず、Bという生徒がSという生徒の頭を鉛筆で突き刺し、あたりが血だらけになりました。さらの、このSという生徒は、彼を注意した私を技術家庭用の太い直定規で突然殴ることになります。その時、Tは、頭から血を流している私を病院にも行かせず、放課後自分ひとりで病院に行った私は、左側頭部を3針縫うことになったのです。その時、医者は「君のクラスはこれで2度目だよね。担任がやってるんじゃないの」と私に尋ねたことを憶えています。本当に、どうなっていたのでしょうね?

    ただし、彼が「○○一家」と書いたとハッピを着て登校し、教員を殴るような生徒に「体罰」を行ったという話は一度も聞いたことがない。そのことは付け加えておかねばならないでしょう。なぜか?きっと「信頼関係」がなかったからなのでしょうね(笑)。

    さらにもう一つ、この教員について思い出すことは、授業のとき、北原白秋の「白鳥の歌」に自ら曲をつけたといって、得意気に朗々と歌って聞かせたことです(白鳥は 悲しからずや、空の青、海の青にも、染まず漂う)。私は、本来性格が素直なものですから(?)、「へ~、たいしたものだ」と感心もしたのでした。しかし、私が高校生になったある日、ラジオからその歌と極めてよく似た曲が聞こえてくることになるのです(笑)。

    
    桑田真澄氏は、「私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありません」と述べていますが、私も全く同感です。私たちは、サディストでもマゾヒストでもありませんから、あんなものに愛を感じるはずはないのです。そもそも、「体罰」が、指導という名を借りた「一方的な暴力」であるかぎり、それは、自己の支配欲を満足させたり、自己の優位に陶酔したり、「有能」な教員であるという評判を得るために生徒を支配し、利用しようといった動機がほとんどであろうと私は想像します。

    また、Tが典型的にそうであったように、「体罰」とやらには、軍隊教育の影響も強いように思われます。すなわち、その目的は、なにしろ、強力な支配ー服従関係を形成して、命令に唯ひたすら従わせようというわけです。つまり、その究極的な目的は、暴力を主要な手段としながら、生徒たちを、「力」に盲従し「権威」に拝跪するところの、奴隷や羊のように「素直」で従順な「良い子」を育てるというわけです。しかし、そこには、本来的な意味での「自律性」も「自己の尊厳への自覚」もないでしょう。(無論、昔から、支配層においては、個を卑しめ、自尊の観念を損なう安易な「体罰」などは戒められていたはずなのですが。)
    こうした観点から言うと、現在ダンマリを決め込んでいる、戸塚ヨットスクールを「支援する会」の会長で、体罰礼賛の石原慎太郎
(http://101.dtiblog.com/admin.php?mode=editor&process=load&eno=98などを参照)や彼のお友達の橋下徹の言動などは、基本的にこの線で理解できると思われます。とりわけ、首長の立場にあって「体罰」を推奨するが如き発言を繰り返していた橋下が、悲惨な犠牲者がうまれるや、一転、「正義」の味方に変身し(おいおい、自分の責任はどうしたんだい!)、「学校」攻撃に転じ、自分の恣意的な判断を教育の現場に押し付けようとする、それは、結局は、先に言ったような「支配ー服従関係」を教育の世界に持ち込み、教員を従わせ、生徒を従わせたいという彼の基本的意図を明瞭に示すものといってよいでしょう。(彼の言説の姑息なテクニックについては、http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=261912&g=121204などをご参照ください。)

    長くなったので今日はこの辺で終わりにしますが、私の高校までの経験では、T以外は、本当に熱心で誠実な先生が多かったことは言っておかねばなりません。(その思い出話などは、また、別の機会にと思います。)
    また、もう一つ、言っておかねばならないことは、子どもたちの成長にとって、(制止、促し、注意喚起等々をも含めた)直接的な物理的強制力は絶対に否定されるべきことなのかという問題です。自分の子ども時代を振り返り見ても、子どもはけっして無垢なものではないし、暴力的でもあり、意地悪でもあることもまた真実でしょう。それ故に、そうした人間が、自らの「わがまま」を規制し、相互的に尊重し合うようになるためには、やはり、それなりの過程を必要とするように思われるのです。このことは、親としての子育てにとっても大きな問題ですし、非礼や「人間の尊厳」の侵害に対抗する、あるいは、人権の尊重のための「暴力」はありうるのかといった問にもつながるものです。以前、私が『風の谷のナウシカによせて(6)』で触れた、ガンジーのトルストイ農場における『体罰』などもこれに関連するでしょう。しかし、それは、基本的に対等な「人間」同士の、主体をかけた実力行使ということになるでしょうから、今回論じた「体罰」とは性質を大きく異にするものといっていいだろうと思うのですけれど。
 

    それでは、明日の大雪に備えて、車にチェーンを着けに行きます。
    次回昨今教育事情(2)は「駆け込み退職」について考えてみます。
    
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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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