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昨今教育事情(2)―――「駆け込み退職」

                 最後の辱めへの「抵抗」 


    埼玉県の「駆け込み退職」が大々的に報道される前の1月19日、私は知人から次のような話を聞きました。知人の知り合いの60歳の高校教員がやはり1月で辞めることを決断したのですが、その理由が「抵抗のため」だったというのです。「抵抗」? 何への抵抗だったのでしょうか。

    ところで、『東京新聞』(1月28日)の「本音のコラム」の中で、宮子あずさ氏は、「よっぽどのことがあったんだろうな」としながら、次のような鋭い指摘をしています。
    「・・・・七十万円といえば確かに大金。でも、二千万円以上を手にする人が、後ろ指さされてまでしがみつく額だろうか。金額だけでは語れないような、うんざりするような何かが、そこにはあったんじゃないかな。思うに、長く働いた人が仕事を投げ出すのは、「自分が大事にされていない」と思った時ではないだろうか。問題は金額より扱いなんだよ、きっと。三月までのたった二ヶ月が我慢できないくらい嫌な思いをして辞めていくベテラン教師たち。その心の奥が気がかりでならない。」と。

    この文章に接したとき、私はすぐにあの「抵抗」という言葉を思い出しました。そして、彼らはどんなことで「いやな思い」をしたのだろう、また、どんなところで「自分が大事にされていない」と感じたのだろう、と考えてしまいました。同時に、このことは、狭く教員の世界についてだけではなく、日本の労働環境全体にも通底していることなのではないかとも考えたのです。

    昨日の朝刊で、東大文Ⅰ(→法学部)の志願者が、昨今の「高級官僚」批判によってなのでしょうか、減少しているという記事を目にしました。それとは話のレベルが大きく異なりますが、私の身近な情報によれば、教育実習も済ませ教員免許がとれるにもかかわらず、教員採用試験の受験自体を止めてしまった学生もかなりいるらしいのです。比較的良好な環境で学校教育を受けてきただろう若者たちにとって、現在の公教育の現状は将来への希望を託すにはかなり難しいものに映っているようです。未来がもし教育にかかっているとすると、これはわが国にとってかなり危うい状況といってよいのではないでしょうか。

    実際、現役の教師たちもかなりの数が定年前に退職しています(全国で年に1万2000人ほど、これは、全体の2%ほどで、定年退職者数の1/2にも達する数字らしい―――http://nctu.blog28.fc2.com/blog-entry-253.htmを参照)。また、2011年度、うつ病などの精神疾患によって休職した教員の数は、全国の小中高などで5274人(全病気休職者8544人の62%)にのぼるというのです。ということは、休職や中途退職に至らないまでも、精神的に大きなストレスを抱えながら働いている教員は膨大な数に達すると想像してよいでしょう。    

    その原因は何なのか。おそらく、直接的な原因は、昨今の教育環境の「変化」への対応の難しさにあると考えることができるでしょう。たとえば、「学級崩壊」などに現れる子どもたちの「変化」、また、いわゆる「モンスター-ペアレンツ」などの保護者の「変化」、地域や「国家・社会」などからの多様化する要求、そして、いわゆる「雑用」の増加による多忙化や成果主義的評価に示される管理職や同僚との関係(職場環境)の変化、等です。しかし、「変化」や「難しさ」はいつの時代にもどこの職場においてもありうることでしょう。要は、教師たちが、胸を張って自らの自主性・主体性をかけて問題解決に取り組むことが出来る具体的な諸条件の整備がなされているのかどうか、「自治体」や「保護者」が問題の困難さを理解し、協力して問題解決に当たる姿勢を持っているのかどうか、といった問題なのではないでしょうか。

    例えば、公立の小学校には何が期待されているのか。知徳体の基礎的な力なのか私立中に合格できる学力なのか、かなり広範な「自由」なのか社会的な「規律」なのか。「学級崩壊」や「学力の低下」の問題にしても、、受験勉強は進学塾でやり学校では遊び騒いでいる子どももいるというし、「自主性」の故か席にも着かず話も聞かず辺りかまわず走り回っている子どもいるといいます。親も、入試問題を教えず『予習シリーズ』が解けない教員を馬鹿にし、また、自主的な「良い子」を「体罰」なしで「説得」できないと教員を非難する。確実に存在する学力の差も、家庭環境などの環境的な要因もあれば、学習障害をはじめとするいわば先天的な要因もあることでしょう。高校では当たり前となった学校間格差や同じ学校でも形成されるコース間の格差など、問題を解決するにはどのような対策が必要なのか、千変万化の具体的状況に対して、どう対応すればいいのか。考えただけでも、頭が痛くなりそうです。

    ところが、このように学校教育に対して両立しがたい様々な要求が突きつけられているにもかかわらず、こうした解決困難な状況の責任を教員の「指導力」にのみ押し付け、都合のいいときには(心にもなく)「聖職」などと持ち上げつつ、悪戦苦闘を余儀なくされている教員を様々な手段によって辱める、そんな状況があったのではないでしょうか。私が想像するに、今回の事態は、まさしく、そうした状況の中で行われた最後の「踏み絵」、定年退職時に仕組まれた最後の辱めだったのではないでしょうか。つまり、総人件費抑制政策の正当化のため仕組まれた「一般」公務員に対する「賃金カット」を、偽りの「聖職」論の脅しによって、飲み込ませようというわけだ。民間大企業に就職した級友たちを横目に見ながら、教職というライフスタイルを選択したこの世代。(「本来」ならば)きっと生徒たちと共に卒業式を迎えたかったに違いありません。しかし、こんな理不尽な『踏み絵』踏んでなるものか―――そんな『抵抗』があったのではないでしょうか。同時に、思い悩んだ末「踏み絵」を踏まざるを得なかった教師たちの「悔しい」想い、それもけっして忘れてはならないことだろうと思うのです。

    教師たちは、教育問題の複雑化、困難化の進展を前に、甚だしい「攻撃」に曝されてきたといってよいでしょう。たとえば、いわゆる「日教組」問題などがそうですが、卒業式など学校行事における「日の丸・君が代」の強制、管理職の権限強化、そして、成果主義的な教員評価など、教育の現場に、おそらく政治的な動機から、支配―服従関係が持ち込まれていったと思います。その結果として、卒業式が素晴らしいものになったとか、学校の教育力が増したとか、教員同士の協力体制が強化されたといったことがあれば良いことなのかもしれませんが、そんな話はほとんど聞いたことがありません。

    そればかりではありません。もともと、「聖職」という言葉がどういう意味なのかは分かりませんが、いわゆる、教師には、自立的な「職人」的イメージ、換言すれば、教育の専門家としての自己意識のようなものがありそうです。これに対して、あの橋下徹大阪市長は、生徒に教員を評価させ、給与に反映させるといった方向性をさえ打ち出していたというのです。勿論、教師も人間であって、問題教師もいるし、多くの欠点もあるはずです。しかし、ごく一般的な教員にとって、そうした方向性が意味すること、それが生み出す効果とはどのようなものなのでしょう。たとえば、CPゲームより「面白い」授業をすることは難しいと思いますが、授業中にゲームをしていた生徒を教員が注意をしたとします。これに対して、生徒は「先生の授業は面白くない。分からない。アンケートに1付けるとくからね。みんなもそうだろ。」という。それでも、ほっておけない教員がCPを取り上げようとする。これに対して、「ア、暴力だ。体罰ジャン。」となる。さて、この教員は、校長は、教育委員会はどうするのでしょう。こうしたことが想定されるとして、あなたは学校の先生になりたい、あるいは、やっていられると思うでしょうか?
       
    この間の、テレビ、新聞での報道もまさしく教師たちは晒し者だ。NHKのアナウンサーが堂々と退職金2400万で云々とか騒いでいるので、それでは、それを決めた県議やそれを報道したNHKアナウンサーの退職金をnetで調べようとしても、記載がなかったり、「プライヴァシーなので・・・」とか書いてあったりする。そもそも、この不況と財政赤字の責任はどこにあるのでしょうか。私は、理不尽な公務員批判―――この場合は、ノン・エリートの公務員を念頭においていますが―――の目的は、基本的には民間の「ダウンサイジング」すなわち民間労働者の現状(リストラ、賃金カット、過重労働、非正規雇用の増加等々)やその更なる劣悪化を正統化しようとするものだと捉えています。その意味で、被支配層多数派の不満を支配層にではなく被支配層の少数派へ転化しようとした江戸時代の分断支配に似ていると思います。それにしても、給与の一部とも考えられる退職金をこんなに簡単にカットされて良いものなのでしょうか。こんな調子だと、公的年金だってどうなってしまうのでしょう。掛け金を請求されている若者たちにしても、40年後に適正な年金を受け取ることが出来ると考えることが出来るのでしょうか。

    総じて、今の日本社会の基本的トーンは、「元気」の素であろう「自律・自尊」とは程遠いものとなってしまっており、「一般国民」は、それ自体確たる「根拠」があるとは思えない、規格化され・数値化された序列的枠組みの中で分断・孤立化され、「人間としての尊厳」を否定された「歯車」・「使用人」・「小役人」として処遇され、そして、統合されている、そんな有様が目に浮かぶのです。そして、このような世の中は、昔風の言葉で言えば義理も人情も道理もない、「うんざりする」ようなものになり果てており、とても元気が出る状態ではない、と言っていいのではないでしょうか。
    最低、生きていくための「面従腹背」?―――しかし、そうした組織や社会に未来はあるのでしょうか。



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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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