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「戦争」を考える日本の夏―――「深い反省」をもとに

戦前の〈侵略戦争〉を”肯定”し、
  「戦争」と核兵器を”肯定”し、改憲に走るアベを許すのか?!


   ※お盆と台風が遠ざかっていった。それにしても、巨大化した台風や命に危険がある暑さの中でもオリンピックをやるわけだ。アメリカ(のテレビ局)の都合に従ったようだが、やるのなら1964年の時のように、秋にすべきだったろう。また、JOC理事会が非公開のままになったが、これも、オリンピック招致に関わる「買収疑惑」に関係があるのではないか?!どちらにしても、アスリートや観客たちのためにオリンピックをやるわけではないということらしい。そして、戦前の戦争も、これからアベがやろうとしている戦争も同じことなのだろう。

   夏には、毎年、「広島・長崎」そして「終戦記念日」を契機として、数多くの作品や報道に接し、「戦争」を考える機会が多い。今年は、平松恵美子監督作品『あの日のオルガン』(第2次大戦末期、若い保母たちが幼い園児たちの命を守るために集団で疎開し、東京大空襲の戦火を逃れた、久保つぎこ作のノンフィクション『あの日のオルガン 疎開保育園物語』の映画化)や新発見の史料をもとに作られたNHKスペシャル『全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~』が特に印象に残っている。結局、私たちを救ってくれるのは市井の「英雄」たちであり、これに対して、既存の「(似非)エリート」たちは国民の安全と平和を守るどころか、悲惨な戦争と破局に国民を引きずり込むか、あるいは、少なくとも、それを阻止することができなかったのだ。

   さて、今年の「終戦記念日」関連の報道の中で最も注目されたのは、先の大戦に対する「深い反省」という、徳仁天皇の言葉だった。この言葉は、裕仁天皇〜明仁天皇へと受け継がれてきた、戦前の「政治」と「戦争」に対する基底的な捉え方だと言って良い。とりわけ、裕仁天皇については、最近の資料の公開によってその内容をかなり詳細に知ることができるようになっている。それらは、戦前ー戦後の政治的意思決定過程の中枢に在って、その内実を直接経験できた人物の捉え方として極めて重要なものと言えよう。そして、その「反省」は、天皇の「国民に寄り添い、国民を思いやろうとする」姿勢の一つの帰結でもあるのだろうが、同時に、それらは、戦争を直接経験した国民自身の捉え方と通底するものがあったと言っても良いのではないか。そして、言うまでもなく、戦後の『日本国憲法』体制とは、こうした戦前の政治と戦争に対する「反省」の上に築かれ、維持されてきたものなのだ。

   これに対して、戦後の米ソ冷戦体制の中で生き延びることのできた戦前の戦争指導者たちとその末裔は、無謀で残虐な「侵略戦争」とその結果生み出された「国民の〈無用〉な犠牲」を”反省”することもなく、それを”肯定”・”美化”しようとさえしてきた。その典型はいわゆる「靖国史観」や「大東亜戦争肯定論」などに表れているが、現在まで引き継がれているアジア諸国との「無用」な軋轢は、現政権の中にも巣食っているそうした傾向に起因していると考えて間違いあるまい。イタリヤやドイツとの対比でも明らかなように、戦後の日本に必要だったのは、そうした指導者たちやその思想との「切断」だったのであり、その欠如こそが日本の若者に「無用」な〈負の遺産〉を押し付けていると言って良いのだ。”私欲(物欲・権勢欲等)”に野放図に駆られ、かつ、国民の安全と平和を守ることにおいては信じられない程”無能”だった戦争指導者たちがなぜ「肯定」されねばならないというのか。国民と若者たちは、もっともっと怒り、批判的であって良いのだ。

   ところで、先の戦争において犠牲となった戦没者の死をどう捉えれば良いのか。その無残で悲惨な死に思いを致す時、それが「尊い犠牲」であり、戦後の日本の平和と繁栄の礎となったとはどのような意味で言えるのか。率直に言えば、それらが、本当に(!)「圧制」への抵抗や「侵略戦争」に対する闘いであったのなら、こうした疑問すら持つことはなかったであろう。それは、国民の多くが無謀で残虐な侵略戦争に動員されたが故に違いない。そうした中、「侵略戦争」への動員とその結果としての無残な死を「〈尊い〉犠牲」と表現することは、おそらく、「私は他国でどうしてこのような死に方をしなければならないのか」と思い悩んだに違いない多くの兵士たちを、「聖戦」のイデオロギーの中に閉じ込める働きを為すことになるだろう。それは、「侵略戦争」を「聖戦」とする虚偽のレトリックを正当化し、維持するのに利用しうるからだ。しかし、「尊い犠牲」をこれとは違った脈絡で考えることも可能かも知れない。すなわち、生き残った人々が、犠牲となった戦没者の方々の姿から、戦前の侵略戦争の現実を直視し、”反省”し、それに基づiいた「平和憲法」を支え続けることによって、74年間の「不戦」を維持することができたということだ。「安らかに眠ってください  過ちは繰り返しませぬから」とは、生き残った人々が彼らの死を無駄にしない決意を示すものに他なるまい。これに対して、最近は、アニメ・ソングを単純に現実の歴史に投影するが如き、極めて恥ずかしい自己愛的「反応」を見ることも少なくない。しかし、"No War For Oil"と主張するアメリカ市民の反戦運動や私的功名心に基づくトランプの戦争(あるいは融和)策動に抵抗するアメリカの職業軍人たちの動きを見てもわかるように、「自衛」の名の下に、国民に〈無用〉な犠牲を課そうとする動きをチェックすることは、国民の命と安全を守る民主政治の根幹に関わることと言って良いのだ。

   最後に、私たちが74年間の「平和」を維持する上で「尊い犠牲」となったのは、兵士として侵略戦争に直接動員され、それに殉じさせられた「英霊」たちだけなのではもちろんない!その「英霊」たちが守りたいと願った家族や同胞、すなわち、膨大な〈一般国民〉の犠牲があったのだ。そうであるにも拘わらず、戦前の戦争指導者とその末裔たちは、これらの〈一般国民〉を大切に扱おうとしてきたのだろうか。自分たちの「国策」に都合よく従ったたものだけを特権的に扱おうとしてきただけではなかったのか。執拗に繰り返される靖国神社(「英霊」の追悼施設)への「公式参拝」も、そうしたことの表れだったのではないか!しかし、全国には、「一般戦災死没者」を追悼する施設が数多く存在している。今年の夏、私はそのうちの2つに行ってきた。それが写真の大谷・平和観音と浅草・浅草寺の平和地蔵尊だ。生きたいと願っていた多くの普通の人々の命を奪った戦争指導者たち。他者の命の価値を貶める輩たち。彼らは、これらの像をどのように見るのだろうか。

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浅草寺・平和地蔵尊


「日本人」って何だ?―――「人種主義」を超えて!

「単一民族」国家観の虚妄と排外主義的「愛国主義」の落とし穴
 ―――「日本人」の「長所」の一つは、異質な他者を受け入れ、共存してきたことかもよ

  
   暑い中ではあるが、8月に入って、2冊の本を読んだ。戸谷学『鬼とはなにか―――まつろわぬ民か、縄文の神か』(河出書房新社 、2019)とB.スマッカー『六月のゆり』(ぬぷん児童図書出版、1979)だ。両書とも読み始めたら止められない面白さがあった。前者は、全国の神社(神道)研究の成果を踏まえたもので、私が抱いてきた民俗学的、文化人類学的興味に十分応えてくれる内容だった。一例を挙げれば、(遺伝子情報が縄文系「優位」だったろう)南方熊楠と(弥生系「優位」だったろう?)柳田國男との関係の指摘なども大変興味深かった。著者の問題意識は、言うまでもなく、「縄文」の復権だ。後者は、黒人奴隷の少女ジュリリー(6月の百合)が、「一人の友におおぜいの友を」を合言葉とする「地下鉄道」に乗って(―――奴隷制度に反対する白人たちの手助けを受けながら)、アメリカのミシシッピからカナダのセント・カサリンズまでの約2000㎞を逃亡する話だ。その中で描き出される人種差別主義者たちの醜さ、そして、人間の”自由”のために戦う人々の姿は感動的だ。そして、現在のアメリカ大統領がこの本の登場人物の誰たちに似ているかは言うまでもない。恐ろしいことだ。

   ところで、最近テレビを見ていると、「日本人とはなにか」―――日本語を喋り、「日本文化」の中で生きている”(北方)モンゴロイド”―――といったイメージに改めて疑問が湧いてくる。テレビに出てくる司会者やスポーツ関係の人たちに、肌の白い人や黒い人たちがたくさんいるのだ。その多くは混血(ハーフだったりクオーターだったり)のようだが、日本人より日本人らしい他人種の人や、見た目には全く区別のつかない東アジア系出自の人たちも多いことだろう。さらに、私の周りを見回すと、息子さんや娘さんが他人種の人と結婚した例がけっこうある。そして、そのお孫さんたちは、「日本人」らしい「風貌」とは異なることが多い。昨日、小泉進次郎が滝川クリステルとの結婚を公表したが、もしかすると、日本の首相の妻が「ハーフ」ということになる日が来るかもしれない。要するに、「日本人」という概念の中に含まれていた「人種」的な要素が風化しつつあるのだ。これまで「日本人」=「単一民族」という観念を強調し、しばしば、「ショービニズム」(熱狂的愛国主義、排外的愛国主義)的主張を行ってきた人たちはどう思うのだろうか。

   ただ、「日本人」はもともと、”多人種”的性格があったというほうが正確なのかもしれない。今、手元に見当たらないので正確なことは言えないが、神島二郎は、『文明の考現学―<原日本>を求めて 』(UP選書、1971年) の中で、留学から日本に帰ってきた時、こんなにいろいろな「顔」(人種・民族?)がある国は珍しいのではないかと感じたと述べていたと記憶している。つまり、この極東の端っこの島国に本当にたくさんの人種・民族が流れ来て混血を繰り返したということだ。現代「日本人」の遺伝子の中には、縄文系も弥生系も、朝鮮系も中国系もモンゴル系も白色系も、そして、ネアンデルタール系のそれすら含まれているのだ。もちろん、それぞれの「人種」的・「民族」的アイデンティティも重要だろうけれど―――とりわけ、他人種や他民族による差別や抑圧に直面した時には―――、私たちは同じ「人類」としてのこの現実をこそ重視すべきだろう。

   滝川クリステルが「日本的」かどうかはわからない(もちろん、日本人だ)。しかし、彼女がいうところの「おもてなし」なるものが、外来者(「まれびと」etc.)を興味深く、温かく迎え入れた「日本文化」の〈一つの側面〉を表現しているのは確かだろう。昨今流行りの、奇妙な”排外主義”的な自国第一主義よりもはるかにまともだとは言える。


『香川照之の昆虫”やばいぜ!”』を見た

一寸の虫にも五分の魂
   ―――サロとの散歩でたくさんのミミズを見た


   ※最近、アスファルトの歩道上でミミズの干からびた姿を目にすることが多い。今朝は、草はらとの境界線付近で体をくねらせてもがいているミミズを見てしまった。どうしてわざわざアスファルトの上なんかに出てくるのだろう。土に野菜や草を埋め込むと元気なミミズが大量に発生するが、土の中も水分が蒸発して暑いのかもしれない。ところで、私は小さい頃蟻にかなり興味を持っていた。巣をひっくり返したり、容器の中で飼ってみたり、何時間もじっと見ていたのを記憶している。ただ、香川照之の昆虫への思いはちょっと別次元のもののようだ。先日、2nd兄貴が、お城博士・千田嘉博を見ていて、「さかな君(宮澤正之)」の「ギョ・ギョ・ギョ」みたいに「ジョ・ジョ・ジョ」とか言わんのかね、と言って笑わせてくれたが、香川照之が驚いた時にはなんと言えばいいのだろうw。ちなみに、我が家にも巨大なカマキリが代々住んでいるし、また、やもり君はもとより「虹色」のへび君まで住んでいる。そして、可愛いけれど憎らしいのが恐竜の子孫たる鳥たちで、さくらんぼの争奪戦はもとより、先日は、超甘いトウモロコシまでやられてしまった。しかし、生き物たちに囲まれた生活は悪くは無い。

   さて、『香川照之の昆虫すごいぜ!』は、全部は見ていないが、好きな番組だった。蟻も昆虫だし。さらに、今回のNスペ『香川照之の昆虫”やばいぜ!”』は、「極楽とんぼ」的な昆虫ファンとは一味違った印象があった。言うまでもなく、環境問題との絡みでだ。世界各地で昆虫が激減し、「あと100年で昆虫は絶滅する」とまでいわれ、人類滅亡を招く恐怖のシナリオ=「昆虫カタストロフ」が現実になってもおかしくないというわけだ。もちろん、こうした現状を生み出したのは「人間」であって、これに対し、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』や「生態系」の理論などが警鐘を鳴らしてきたことではある。ただ、この番組がすごいところは、やはり、カマキリに魅せられ、カマキリの姿にまでなった香川照之の”視点”なのだと思う。日本語には、「一寸の虫にも五分の魂」と言う素晴らしい言葉がある。今朝ミミズを見て頭に浮かんだのもこの言葉だった。地球上で「生命」を共にする生物たちとの「共同性」をこれほど”感性”的に表現しえた言語があるだろうか(英語にはないよな?)。そして、こうした自然あるいは他生物との「一体感」が、香川にあの真剣な「怒り」の表情を生み出させたのだと思う。それは、人間自身が”やばい!”というだけではないのだ。

   私は、一週間ほど前に、携帯用の買い物袋(エコバッグ)を買った。何年か前に「姉貴」から誕生祝いにもらってはいたのであるが、もう一つというわけだ。その理由は、テレビで、プラスティック製廃棄物によって苦しむ海の生物たちの姿を見たからだ。食物連鎖の頂点に立つものが何を言うかとも言えるが、この地球上で共に生きている他の生物たちに”無用”な殺生はせず、その命の恵みに感謝して生きることは、「宗教者」ではなくとも、大切なことではないかと思うのだ。

次の衆院選で決着だな!―――参院選後に考える

アベ友政治は、内政も外交も、”安定して”、ゴチャゴチャ!
 ―――れいわ新選組を含む「野党と市民の共闘」に期待する!


   ※今週は、卓球と「アルバイト」をやったが、やはり身体と頭がまだ疲れているw。そして、確かに天気がおかしい。しかし、こうした気候の中でもトマトをはじめとする野菜たちは元気に実を膨らませ、私の舌と胃袋を癒してくれている。サロさんの歩きも好調で、知り合いの人にも褒められるほどだ。また、参院選の結果も、楽観できるほどではないが、アベ友政治崩壊の予兆を確かに感じさせるものだった。

   参院選が終わり、新聞の見出しは、どれもこれも、「与党改選過半数獲得」そして「改憲勢力3分の2に届かず」だった。しかし、アベ自民党についてみると、議席は−9の57議席で単独過半数を割り、比例区の得票数も1771万票と200万票も減らし、全有権者との比率である絶対得票率でも20%を切っている。「花粉症ゼロ社会」を訴えてさえ(ウソつけ!)この有様なのだw。また、野党統一の効果は明らかに出ており、2016年に続いて、多くの重点一人区で、野党の新人が自民の現職を破っている。特に重要なのは、歴史的な低投票率=48.80%の中、投票率の高い選挙区で野党が勝っていることだ。例えば、岩手(56.56%)、宮城(51.17%)、秋田(56.29%)、山形(60.74%)、新潟(55.31%)、長野(54.29%)、滋賀(51.96%)、愛媛(52.39%)、大分(50.54%)、沖縄(49.00%)、と言った具合だ。つまり、”主権者”意識の強い人々が多い地域では、いくらアベやシンジローが出張っても誤魔化すことは困難ということだ。自公にとって、「信者」たち以外を「如何に眠らせておくか」が政権維持のポイントとなってしまっているのだ。

   低投票率の問題は若者世代にとってはさらに顕著で、10代の投票率は、18歳が34.68%、19歳が28.05%、合わせて31.33%という凄まじいものだ。「政治」はまさしく「他人事」ということか。いうまでもなく、こうした低投票率は”民主政治”の機能不全を意味するものであり、人々の”政治”への「無関心」あるいは「無力感」をどのように捉え、どのように克服していくかは、人々の人間らしい生活を実現していく上で喫緊の課題と言って良いだろう。こうした観点で今回の参院選を見たとき、最もインパクトが強かったのは「れいわ新選組」だったと言って良い。

   れいわ新選組の躍進(比例区での得票数228万票、4.55%、獲得議席2)は、山本太郎氏のこれまでの議員活動やパーソナリティに負うところが大きかったであろうが、なによりも、その主張―――「緊急八策」をはじめとする17の政策―――が極めて具体的でわかりやすく、また、多くの人々に訴えかける力を持つものだったからに間違いはあるまい。そして、その基軸は、まさしく、「日本国憲法」の諸権利(自由権、平等権、社会権、幸福追求権、平和的生存権等々)を21世紀の現実の中で捉え返し、それを護り、実現しようとするものだったと私には思われるのだ。それを「非現実的」という人もいるだろうが、消費税の廃止にしても、財政出動にしても、理論的には「常識」の範囲内のものだし、また、政策的にも、歴史的・現在的に存在しうる、「選択の範囲内」のものと言って良いのだ。それらが「現実的」か「非現実的」かは、一定の力関係を基に歴史的に形成されてきた「ヘゲモニー」的状況の産物ともいえるもので、アメリカや北欧諸国の現実がそれを示していると言って良い。現在の日本の”政治風土”をどのように捉えるかは難しい問題だが―――私は、おおよそ、戦前の「半封建的身分意識」と「明治憲法の超国家主義的変種」(の残滓)そして新自由主義的な「競争原理主義」と「新保守主義」の相互補完的な混合物だと考えているが―――、「れいわ新選組」の主張は、確かに、人々の”基底的価値意識”(人間観・人生観・社会観等々)の水準にまで届く射程をもち、普通の人々を「政治」から「疎外」するシステムの中で「無力感」と「無関心」に沈み込んでいた多くの人々の心を掴み得たのだと思う。

   参院選後の政治状況は、ますます緊迫度を増している。対米貿易「密約」、対イラン「有志連合」への参加、日韓関係悪化の影響、消費増税のもたらすだろう影響、年金・医療・介護等の質のさらなる低下、そして、労働環境をはじめとするより広範な人々の「生きにくさ」とそれに対する鬱屈した感情、等々。こうした中で、アベ友勢力の利益維持のためにその負担を一般ピープルに押し付けるだけのものでしかない、「痛みをともなう改革」とやらが再び盛んに唱導されることになるだろう。しかし、それは、同時に、普通の人々の命と生活をますます危険で困難なものにしていくアベ友政治の本質が白日の下に晒されていくことをも意味するのだ。そして、こうした流れは、眼前に迫る自然災害をすら一顧だにしない「極楽とんぼ」的な東京オリンピックのカラ騒ぎの後に、また、大統領選を前にその劣勢を跳ね返そうと必死なトランプによって仕掛けられる国際的な危機によって、頂点に達するだろう。そのことについて、アベ友政権はどれほどの危機感と緊張感をもっているのか。

   もちろん、日本の「政治」状況は、”凄まじい”の一言だ。とりわけ、汚らわしくてコメントもしたくない、丸山だの、石崎だの、立花だのを典型に、まさしく、「日本」”社会”が「溶解しつつある」とか、「底が抜けつつある」とかの表現がピッタリといえる程のものだ。こうした中で、その総本山たる「ギソウ・ネツゾウ・インペイ」のアベ友政権が「一般ピープル」を”舐めてかかる”のにはそれなりの根拠があると言えるだろう。しかし、アベ友の”悪行”に気づきながらも、腰が引けた「悪夢の民主党政権」よりは現行の自公政権の継続の中にある程度の「安定」を見出し得るかもしれないと期待している「一般ピープル」中間層の「想い」(「幻想」)がどれ程続くかの保証もないのだ。逆に、2020年秋以降の危機の顕在化を前に、アベ友政治と真正面から対峙する「選択の時」が近づきつつあると言って良いのではないか。そして、その帰結は、結局、日本の「一般ピープル」の知性と道義心と矜持にかかっていると言って良い。「野党共闘」と「野党連合政権」を支えるのは、その力による他ないからだ。

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一般わんわんも考える

いよいよ明日か!―――参院選・投票前に考えること

なぜあのように公然と嘘がつけるのだろうか?
 ―――権力を握るためには当然と思っているのだろうな!


   ※今回の参院選、けっして盛り上がっているとは言えないだろうが、私は私なりに”事態”のなんたるかを理解し、できる限りの情報蒐集に努めようと思ってきた。そして、そうした中には大変興味深いものが数多くあり、次の衆院選にも繋がる「希望」も垣間見得たと言って良いと感じた。「野党共闘」の諸政党・諸グループもそれぞれ頑張っていたと思うし、また、とりわけ、共産党とれいわ新選組の候補者と応援者たちには迫真力を感じた。さあ、結果が楽しみだ!

   それにしても、アベというのはなんなんだ? 選挙運動最終日のニュースを見ても、本当に最後の最後まで「目くらまし」ばかりだ。論点をはぐらかし、事実とは異なることを平然と述べ、無理筋を押し通そうとする。「ぎそう・ねつぞう・あべしんぞう」とはよく言ったものだ。9条関連で言えば、問題の焦点が「集団的自衛権の行使」(自衛隊の米軍との共同行動=戦争)であることはいうまでもないが、そのことには触れず「自衛隊を憲法に書き込む」だけだと強調し、おまけに、対立点を「憲法を論じるか・論じないかだ」などという人を馬鹿にしたような目くらましに走るのだ。また、年金問題では、財政検証を闇の中に置いたまま、野党の財政的裏付けを伴った対案を完全に無視した”嘘”を声高に叫ぶ。さらに、これまで新聞をそれなりに読んできた者には明らかに”無理筋”と思われる「日韓経済戦争」を、年金問題隠しのために利用しようとさえしているようなのだ。昨日の坊ちゃん・コウノ・タロウの「無礼」発言などは最悪だろう。これで、日韓関係は終わりだ。収拾がつくはずはない。アソウ・タロウの「報復措置」発言にしても、また、とってつけたような「輸出規制強化」の理由の検証――韓国政府の報告だけなんですか?―――にしても、国際的な視野で言えば、「無礼」なのはどちらかということにならざるを得ないだろう。ああ、大変だ。この国は、本当に、どうなるのだろうか。

   今日も、農作業とサロさんの面倒で汗だくだった。でも、明日は投票日。「勧善懲悪」で一票を投じてこようw。
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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