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東京都知事選について―――一言いっておかなければ

 田母神は、「郡山の、福島の”恥”」?
        ――― 否! 日本の”恥”でしょう!



     明日は、東京都知事選の投票日です。私は埼玉県民で投票権はないのですが、日本の首都であり、日本総人口の10%を占める巨大都市・東京の選挙結果には、やはり関心があります。勿論、前知事が「途中降板」の石原であったり猪瀬であったりするわけですから、「大したことはない」―――(「豊かな」東京都民の皆さんは、こんな輩が知事であってもやって行けるのでしょう)―――とも言えるのですが、話題となっているいくつかの論点については述べておかなければならないように思います。新聞やテレビを見ていると、「原発」・「オリンピック」・「福祉」・「災害対策」など、舛添・細川・宇都宮・田母神などの主要な候補者の間にはかなり大きな違いが存在しているようです。

     それでは、まず、2020年の東京オリンピックの件からいってみたいと思います。今朝も、NHKは、朝からソチの冬期オリンピックの開会式を報道しています。私はスポーツも嫌いではありませんが、アマチュアリズムが後退し、商業主義と国家主義の〈悪臭〉が漂う最近のオリンピックには特別な魅力を感じなくなっているように思います。要は、はしゃぎ過ぎというか、騒ぎ過ぎであって、若い時勉強した「スポーツの政治的・イデオロギー的機能」なんてことまで思い出したりするくらいなのです。今日の開会式も、ヒトラーのベルリン大会とまではいいませんが、プーチンの国家主義が漂っていましたよね。2020年には、アベの国家主義なんてな話になるのは是非ご免こうむりたいものです。大体、ここまで商業主義が高じてしまうのであれば、他のプロスポーツと同様に、自前でやればよいわけであって、わざわざ国民・都民の税金を大量に投入してやることはないのではないか。要は、指導者の権力強化のための「国威発揚」であるとか、ニューディール的な大衆的な基盤も持たず、ただ「お友達」を儲けさせるためだけに税金が集中的に使われてしまうことなってしまわないように是非注意してもらいたいものです。あの猪瀬氏の並々ならぬ努力によって勝ち取られた2020年東京オリンピックの開催ではありますが、できるだけ簡素にやることが妥当な選択というものでしょう。都民の皆さんはどう考えるのでしょう。

     さて、福祉についてですが、私がまずに感じているのは、雇用・失業問題を典型として、現在の日本の経済は、経済的支配層の利益に照応するシステムが、本来日本「国民」が有している〈潜勢力〉を歪め、さらに、それが、そのシステム自体の矛盾が集中する人々の生活と命を脅かすことになってしまっている、ということです。ここから、いわゆる社会福祉の必要性・必然性が生まれてくるわけですが、私は、結局、こうした構造自体に目を向けることができる、すなわち、現在の〈セコイ〉経済的支配層の利益ではなく、「一般ピープル」を中心とする、社会を実体的に支えている人々の利害を優先することができる人でなくては、問題の根本的解決はできないだろうと思うのです。私は、アベノミクスと利益を共にする人は確実にいるわけで、問題はそうではない人々がそのことに気付いていないことにあると思っています。しかし、「化けの皮」はすぐ剝がれるのであり、その時のために、現在、様々な報道規制・教育統制そして弾圧体制が準備されつつあるのだろうと思っています。このままでは、社会福祉は確実に切り詰められ、社会の構造的な矛盾によって「福祉受給者」(私は、日本の福祉の現状は、一種の「救貧」政策の延長線上にあり、北欧的な共助=「生活保障」とは異なっていると捉えています)とならざるを得ない人々への差別と攻撃は一層強まっていくであろうといわざるを得ません。さあ、都民の皆さんは、どんな福祉政策を主張する候補者に共感するのでしょうか。

     もう一つは、「防災対策」です。私は20年程前東京都の防災対策の現状というものを次のように聞いた記憶があります。すなわち、もし東京に直下型地震が起きた場合、要するに、現状では為すすべがなく、警察無線と消防無線を維持するのが精一杯のところだろうというものでした。あれから、阪神淡路大震災や東日本大震災の教訓も含めて、関連する部署の方々による対策の前進もあったに違いありません。しかし、あの〈複雑怪奇〉な超過密都市を見ると、結局、災害時には、数千・数万・数十万そして数百万規模の犠牲者・被災者の発生を前提として存在していることに変わりはないのではないかとも思われるのです。すなわち、都市構造の抜本的、すなわち、利益優先の再開発とは別次元での対策が講じられない限り、自衛隊も、NPOも、ボランティアも十全の働きを為し得ないということになるのではないでしょうか。自衛隊も、本格的に、「災害救助隊」として再編し、再訓練することが必要なのかもしれません。巨大地震は間近なのでしょうか?

     最後は、原発の問題です。今回の選挙戦について言えば、意識的に「原発」問題・「原発再稼働」問題の争点化が避けられているという話も聞こえて来ていました。それは、自民党政権と〈蜜月〉関係にあるマスコミ多数派の基本的姿勢を考えれば、大いに考えうることと言えましょう。しかし、いうまでもなく、この問題は、電力の最大消費地であり、東京電力の筆頭株主でもある東京都にとって無縁であるはずはなく、また、この問題に対する日本の首都たる東京の選択は、今後の日本の方向性を決する重要なものになっていくでしょう。この問題についての私の意見は、「脱原発」であり、「再稼働」はしてはならないというものですが、ここでそれについて詳しく述べることはしません。ただ、一つだけ、是非言っておかねばならないことがあります。それは、元自衛隊航空幕僚長・田母神候補の〈妄言〉についてです。私の近しい人は、彼のことを「郡山の恥、福島の恥」と表現し、「逃げなくて良かったというならば、放射線管理区域の近くに住んでから言えば良い」と言っています。彼は、福島の原発事故対して「一人も死んでいない」から始まって、これからの〈景気回復〉のためには原発の再稼働が必要だとか、まあ、「武士」どころか、〈原子力村〉の「下足番」・「太鼓持ち」以下の醜い有様を曝しているのです。要するに、彼の言によれば、誰かさんが金を儲けて、「豊かな暮らしをする」ためのリスクとしては、福島で起こった原発の事故ぐらい大したことはないのだ、さらに、「一人も死なない」原発事故などこれからいくら起こってもどうってことはないのだ、ということなわけでしょう。そして、その議論は、「豊かな暮らしをする」ために交通事故で1万人死亡しているのだから、「豊かな暮らしをする」ために原発で1万人死んだって大したことはことはない、となり、さらに、日清戦争による死者1万人は交通事故による死者と同じくらいなのだから、「豊かな暮らしをする」ためにこれからの戦争で10000人の若者が死んでも、その死は交通事故死と同じなんだから、騒ぐんじゃないよ!ということになるわけでしょう。原発関連死や現在も進行している放射線障害はいわずもがな、ふるさとの自然を汚染され、放射能の恐怖と被害に曝され続けていくであろう人々を気持ちを考えると、こうした交通事故死と原発事故死を同一視するが如き―――これは、戦死と雷に打たれるなどの自然災害死とを同一視する議論よりもさらに悪質である―――アホな議論を展開する輩がのさばっていること自体、世界的に見ても、全く「日本の恥」といってよいことだと思います。ただ、彼は盛んに安倍総理と歴史認識(そして、基底的価値観)を共有していると主張していますが、それは我々にとって実に有益な「証言」といえるものです。今日も、良識ある報道機関によって、NHK会長・籾井や経営委員の百田だの長谷川だの、アベと価値観を共有する「お友達」たちの〈妄言〉が報道されていますが―――これらについては、又、近いうちに論じたいと思います―――、それらは、心にもない〈嘘〉を連発しているアベの「化けの皮」を剥がす上で非常に価値あることと言えるでしょう。
原発に関しては、ただ、自分と家族そして友の「命」と「健康」を考えただけで、結論は明々白々と言えるはずです。

     長くなってしまいました。さて、東京都民の選択はどうなるのでしょうか。脱原発を推進する候補者の勝利を願っています。

秘密保護法〈強行採決後〉の日本―――一般ピープルの倍返し

安倍・麻生・石破らが目指すのは戦争=〈国家テロ〉だ!

   ―――知性も品性もないこんな輩に好き勝手されて、なんと気分の悪いことか。


     ※ 2013年12月6日(金)、「特定秘密保護法(案)」が参院で自公の賛成多数で成立した。この稀代の悪法が、まさしく、知性も良識もない小心者たちの手によって強行採決されようとしていた12月の5日と6日、私は国会前での抗議行動に参加しました。それは、今を生きる一人の人間としてこの恥ずべき策謀を許すことはできないと感じたこと、そして、少なくとも、これに抵抗することが子供たちや未来の人々への責任を果たすことだとの思いからでした。今回のブログでは,この間に感じたこと、考えたことを書き記しておきたいと思います。



★「恥を知れ!」というシュプレヒコールが全く違和感なく聞こえる★


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(12月5日)



     5日,疲れていたので午後一眠りして目が覚めると、今夜にでも強行採決とのテレビニュースが聞こえてきました。居ても立ってもいられず、「歴史の現場」に向かいました。9時過ぎに国会前に着きましたが、まだ少なからぬ人々が抗議の声を上げていました。
     今回の抗議行動に参加して最も強く印象づけられたのは、「自民党は恥を知れ! 公明党は恥を知れ! 賛成議員は恥を知れ!」というシュプレヒコールの表現とその「響き」に対してでした。日本には「恥を知る」ー「恥の文化」が存在してきたことは周知のことですが、安倍政権とその随伴者たちの言動を思う時、この言葉が日本の政治家たちにこれほどふさわしいと感じられたのは、今までの私の人生の中でも少なかったように思われます。まず、彼らの〈民主政治〉に対する見識の低さは驚くべき水準のものです―――勿論,彼らは,意識的に、戦後の「民主主義」的政治体制を戦前の「〈非〉民主主義」的政治体制へ引き戻そうとしているのかもしれませんけれど。また、今回の法案審議における彼らの様々な問題点への回答の杜撰さは、国民の国語力を舐めているか,あるいは,彼ら自身の論理能力の貧困さを表わしているのかのどちらかとしか言いようがありません―――恐らく,その両方でしょう。また、このようなコトの運びの拙速さは、間違いなく、この法案の内容自体に対する彼らの自信のなさの現われでもあるでしょう。要するに,いくらなんでもこんなことは長くは続かない―――つまり、時間をかければかけるほど〈化けの皮〉が剥がれ、一般ピープルを騙し続けることは難しくなる―――、無理してもどさくさ紛れにやってしまおう、どうせ一般ピープルはちょっと目先を変えてやればすぐ忘れるんだから、と。しかし,国民を馬鹿扱いし、反民主主義的な政治手法を厚顔無恥にも繰り返す、無能な三世議員の総理や副総理、そして、キャンディーズの追っかけをやっていた軍事オタクの幹事長などこそ、まさしく,「恥を知れ!」の言葉が何よりふさわしいレベルの輩ということなのです。しかし、このような嘘八百と目くらまし的な言辞と政策を連発しているこのような低レベルの政治家たちを国政の中心に留め置いていること自体に、我々日本の主権者たちは恥入らなければならないとも言えるのです。

   
★ 「論より標語」の〈アベノスピーク〉―――〈無内容〉かつ〈ごまかし〉専門★

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                (12月6日)



     それにしても、アベッチの言辞の〈皮相さ〉と〈欺瞞性〉は際立っています。本人というよりも、側近のコピーライター的人物の「作りもの」だと考えられるのですが、それらにはマキャベリズム的臭気が濃厚で,誠実さなどはほとんど感じられない代物なのです。例えば,今回の「〈特定〉秘密保護法」の〈特定〉や、あるいは、戦争準備を「積極的〈平和主義〉」などと表現するなど、正反対な意味を持つ言辞を用いてその本質を隠蔽しようとするその手法は全く白々しく感じさえするものです。又,汚染水をはじめとする原発関連の「詭弁」的言辞(細川元首相)、そして、国民の格差を前提・拡大しつつ、あたかも国民全体に関連するかのような「アドバルーン」的言辞など、以前私は,アベッチの言辞をジョージ・オーウェルの『1984年』にでてくる「ニュースピーク」を想起させるものだと書きましたが(http://sarochan.dtiblog.com/blog-entry-157.html)、今回の次々と繰り出された無内容な「第三者機関」名などもそうした手法の典型的な現れと言って良かったのです。それは、「論より標語」の、恥ずべき〈アベノスピークス〉と呼ぶべきものでした。


★ 麻生の「ナチスに学べ」の実践ですか! ★

    これもすでに多くの人たちが指摘しているところですが、今回の国家秘密法や集団的自衛権「容認」への動きに見られる一連の政治手法は、ワイマール体制を死に追いやったあのナチスの「全権委任法」のそれを思わせるものです。当ブログでも取り上げたところですが(http://sarochan.dtiblog.com/blog-entry-149.html)、麻生は言っています―――「だから、静かにやろうやと。ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか。」と。 すなわち、現在の日本国憲法の体制を国民の気がつかないうちに実質的に掘り崩し,改変してしまおうというわけです。(ワイマール期の)インフレならぬ(「失われた10年」の)デフレ対策で国民多数の支持を〈詐取〉して国会における圧倒的多数を握った安倍政権は、公約にも掲げていなかった、国民に何が秘密かも知らせず政府・官僚の判断によって厳罰化が可能な「特定秘密保護法」を真っ当な審議すらせずに強行採決したあげく、今後国民にその必要性や中身を説明していきたいなどとほざいているのです。
     これからもナチスに学ぶとすれば,外敵の脅威を喧伝しつつ,国内の批判的勢力の言論や表現の自由を弾圧・抑圧し、そして、実際の軍事行動をも辞さずに(国家社会主義的ならぬ)新自由主義的な「戦争経済」を推進し、そのことによって景気浮揚を実現して自らの政権基盤の維持・確立を策する、ということになるのではないでしょうか。しかし、戦後の「平和的なもの作り経済」を「戦争はもうかる」的な「戦争経済」へ転換させては絶対になりません。経済活動の本来の目的は、あくまでも、私たち一般ピープルの経済的〈福利〉の実現でなければならないはずだからです。



★〈国家テロ〉論者・石破の正体 ★

     私たちの「平和」的な非暴力直接行動をテロ扱いした石破は、これまでも国家による究極的な暴力行為たる〈戦争〉のできる国家体制を作り出そうとしてきていましたが,その彼は、当ブログでも紹介したように(http://sarochan.dtiblog.com/blog-entry-127.html)、次のように発言しているのです。        

     『これは国家の独立を守るためだ。出動せよ』と言われたときに、いや行くと死ぬかもしれないし、行きたくないなと思う人がいないという保障はどこにもない。だから(国防軍になったときに)それに従えと。それに従わなければ、その国における最高刑に死刑があるなら死刑。無期懲役なら無期懲役。懲役三百年なら三百年。そんな目に遭うぐらいなら、出動命令に従おうっていう。人を信じないとかいわれるけれども、やはり人間性の本質から目を背けてはいけない。

     つまり,石破は、国民を、殺し・殺される〈暴力〉的な行動たる「戦争」に強制的に動員できる体制を作り、もし,それに従わないようであれば、究極的な〈暴力〉行為である「死刑」をもって報い、その〈恐怖〉感から国民を従わせようと堂々と主張しているのです!これこそ、テロリズムの発想以外の何ものでもないでしょう。つまり,石破は、〈国家暴力〉の単純な肯定論者であるにもかかわらず、自分に都合の悪い思想や自分たちに反対する人々を簡単に「テロリスト」呼ばわりし、そして、秘密保護法による監視対象にしようというわけでしょう。それは、たとえば、ネルソン・マンデラ氏をテロリスト扱いした独裁的で反民主主義的なアパルトヘイト体制下の南ア政府指導者の感覚と通底するものに違いありません。
     はっきり言っておかねばならない―――我々〈主権者〉は,あのような擬制的な投票行動で,君たちのような政治家たちに「全権」を「委任」したわけではないということを。それ故にこそ,思想・表現の自由をはじめとする、国家権力に対するあらゆる政治的自由権の諸規定があるのだ。このような民主政治の基本原理をすら理解しえていない輩が幹事長を務める今の自民党というのは一体どういう集団なのか。同国人として恥じる他ありません。


★帰りの電車の中で―――疲れた人々と二つの人身事故★


     5日、帰宅の途についたのは、10時半を過ぎていました。その時、電車の中で見た人々の疲れた様子は想像以上のものでした。豊かな首都で働く人々なのですが、それは,数十年前に私が見た人々の印象とはかなり違っているように思われました。つまり,それは肉体的疲労とは違った「ストレス」、つまり、基本的な「誇り」や「余裕」や「安心」を持たないがゆえの疲れではないか、そう感じさせるようなものでした。又,6日、私は9時過ぎに帰宅の途についたのですが、その時,新宿から乗った埼京線の中で、私は二つの〈人身事故〉のニュースを知りました。神奈川と埼玉でのことです。アベノミクスの華々しい宣伝とは裏腹に、一般ピープルには重苦しい雰囲気が漂っているのです。大衆への増税と公共事業を通してそれを一部のお友達へ配分すること、また、TPPをはじめとする新自由主義経済の推進と「戦争経済」化によって、リスクを一般ピープルに転化しながら、これ又、一部のお友達を潤す安倍政権の経済政策の方向性は明らかというべきでしょう。とりわけ、アイゼンハワーの警告をもちだすまでもなく,「戦争経済」(軍産複合体)によってこれまで世界中のどれだけ多くの一般ピープルが犠牲になったことか。安倍政権の本質を見抜く必要があります。

  あんな輩に好き勝手をさせてはならない―――全力を挙げて,彼らを政権の座から引き摺り下ろさねばなりません!一般ピープルの倍返しだ!

     ※ 現在,ブログの引っ越しの準備中です。あと一週間以内に、テンプレートのデザインなどを整え,新しいサイトをお知らせできると思います。今後ともよろしくお願いいたします。また、当日,集会に参加できなかった方々のために、日比谷野音での「集会アピール」を資料として載せておきます。勿論,私もその中に入れなかった一人ですが。



 【参考資料1】  集会アピール(案)



 自民党の石破茂幹事長が国会周辺のデモに対して自身のブログで、「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」という、驚くべき認識を示しました。批判が巻き起こると、「テロ」の部分を削除し、「本来あるべき民主主義の手法と異なるように思う」と修正しました。何という政治家でしょうか。「特定秘密保護法案」でテロの定義が争点の一つになっている時に、民主主義社会で当然に保障されている言論・表現の自由に基づく行動を「テロ行為」と同一視したのです。
 では、石破氏が言う「本来あるべき民主主義の手法」とは何なのでしょうか。
11月25日、福島市で開かれた公聴会で公述人7人全員が法案を批判したのに、その翌日、自民党、公明党などが、衆院の特別委員会、本会議で強行採決を行いました。原発震災に苦悩する福島をアリバイ作りに利用して恥じない暴挙です。同時に沖縄では、民意を体現していたはずの自民党国会議員と党沖縄県連に普天間基地「県外」の公約破りを強要し、屈服させました。どこが「民主主義の手法」なのでしょうか。
 参院でも同じ「手法」が繰り返されようとしています。民意を無視し、民主主義の手続きをないがしろにする、横暴極まりない安倍政権の一連の行為こそ、民主主義に対する「テロ行為」ではないでしょうか。しかも、与党が国会の多数を占める結果となった選挙は、裁判所から「違憲状態」「無効」と判断されているのです。
 秘密まみれで準備してきた稀代の悪法「特定秘密保護法案」を、この政権は今、しゃにむに通そうとしています。国会の上に行政が君臨する官僚独裁に導き、市民・国民を監視して戦争へと動員するこの法案は、憲法と民主主義の転覆を図るクーデター法です。監視と重罰であらゆる人を萎縮させ、住民、市民、労働者の運動の手足を縛り、取材・報道、言論・表現の自由を窒息させて「知る権利」を奪うこの法案は、恐怖と威嚇で自由と民主主義を封殺するテロリズムというべきではないでしょうか。
 ここ日比谷公園で11月21日、一万人以上が反対の声を一つにしました。今、廃案を求める声があらゆる分野で燎原の火のごとく広がっています。世界のマスメディアが、国連が、人権NGOが、批判と懸念を強めています。世論調査では反対が賛成を大きく上回っています。
 それでも、この政権は暴走を止めようとしません。
 この国は戦後最大の危機に直面しています。安倍政権の暴走を食い止めるために、きょう、ここに集まった私たちは、来られなかった圧倒的多数の市民・国民とともに、そして世界の全ての良識ある人々とともに、行動します。私たちは、この法案を廃案にするまで全力を尽くすことを、ここに宣言します。
                             2013年12月6日
                       「秘密保護法」廃案へ 12.6大集会
                                  参加者一同


【参考資料2】 「アベノクーデター阻止」のプラカード



DSC_1225アベノクーデター.jpg

 


「安倍政権は、明らかに憲法に違反し、基本的人権を踏みにじる秘密保護法案を、民意に背いて衆議院で強行可決しました。これは、解釈改憲による集団的自衛権容認の動きと一体で,正に『ナチスの手口』,すなわち「合法」を装った政治権力によるクーデターの開始,という他ありません。」などと書かれています。

【注】以上はdti「ムリキブログ」の12月9日版を転載したものです。その後の政治経済情勢も「酸鼻」の極みと言った状況で、NHK(犬あっち行け)ニュース9が「速報」した支持率低下を〈口先〉だけで操作しようとする「アベノスピークス」、TPP交渉での見え透いた猿芝居、お友達のみを優遇する税制改正大綱、労働者派遣法の拡大、国民の意思を舐めきった原発推進政策等々、安倍政権の反「一般ピープル」的性格はますます露になってきています。政治から目を離すことはますます危険な状態になっています。

「ナチスに学ぶ」・麻生発言を一般ピープルが読む―――

 
いやはや、この人が日本の副総理・財務大臣ですからね
 
 
 ―――一応「予防線」は張っておくが、仲間内のウケを狙って、本音をひとくさり。
「だから、静かにやろうやと。ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか。」 えっ! 国民が気がつかない間に改憲することは、民主主義を否定することになるんじゃないですか?!



     この発言は、7月29日、極右・櫻井よしこが理事長をしている国家基本問題研究所 ・月例講演会「日本の進むべき道」のなかでなされたものでした。その詳細については、『朝日新聞デジタル:麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細 』をこのブログの最後部【資料1】に転載しておきましたので、是非、ご自身で確認していただければと思います。この発言に対し、すぐに国際的な批判の火の手が上がり(『日本リアルタイム』:麻生財務相に非難の嵐-「ワイマール憲法」発言で、7月31日、参照)、麻生副総理は8月1日にはこの発言の一部を撤回し、弁明することになりました(『日本リアルタイム』:麻生財務相、ナチス発言を撤回、8月2日、参照)。また、この間、日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)は、この麻生発言について、「かなり行き過ぎた、ちょっと度のきついブラックジョークというところもあるのではないか」としつつ、「憲法改正論議を心してやらなければいけないというのが(発言の)趣旨だったのではないか」そして、「(前後の文脈から)ナチスドイツを正当化した発言では決してない。国語力があれば、すぐ分かる」と擁護したのでした(『YAHOO JAPANニュース』時事通信社、8月1日)。

     毎日新聞の社説は、「麻生氏ナチス発言 撤回で済まない重大さ」(『毎日JP 』2013年08月02日、参照)と論じていますが、問題のポイントは、いうまでもなく、
(1)「私は憲法改正について、落ち着いて議論することが極めて重要であると考えている。この点を強調する趣旨で、けん騒に紛れて十分な国民的理解や議論のないまま進んでしまった悪しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法の経緯を挙げた
(2)「私がナチスおよびワイマール憲法にかかる経緯について、極めて否定的に捉えていることは、私の発言全体から明らかだ」という、麻生の弁明の真偽にあります。これに対しては、共産党の志位委員長が極めて簡潔な批判を展開していますので、それについては【資料2】を参照していただくとして、一人の一般ピープルとして、私がこの麻生発言をどう読んだかを以下書き記しておきたいと思います。


     まず、麻生発言を読んで感じたことは、国語「読解力」を必要とし過ぎる悪文というか、支離滅裂というか、真っ当な日本語ではないと言うか、「未曾有の阿呆太郎」という気の毒なあだ名を実証するような文と感じざるを得なかったことです。「しっかりと考え抜いて、論理的に話をしなさい」と言っていた私の先生ならなんと評することでしょうか。また、どんなに国語の点数が良かったのかは知りませんが、橋下の「国語力」なるものも、麻生副総理と同様、まともとは思えないものです。マア、橋下の言辞をオウムのようにギャーギャー繰り返す、「国語力」ある取り巻きたちと分かりあうしかない代物といってよいでしょう。ともかく、ハシシタない話です。
     
    ただ、麻生発言【資料1】は、その中のドイツを日本、ヒトラーを安倍晋三、ワイマール憲法を日本国憲法、「ナチ憲法」(?)を自民党憲法草案に置き換えると、実に興味深い、教訓に富んだものになるように思われました。たとえば、
     10年後、独裁的性格を露にした安倍政権の下、海外派兵によって大きな犠牲を生み出した日本国民は、「日本は安倍晋三は、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、安倍晋三はでてきたんですよ。安倍晋三はいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。安倍晋三は、選挙で選ばれたんだから。日本国民は安倍晋三を選んだんですよ。間違わないでください。」と、強い自戒の念を込めて反省した。また、
    「彼は日本国憲法という、当時世界でもっとも進んだ憲法下にあって、安倍晋三が出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって・・・」 全く正しい!
     また、20年後、「ナチス憲法」(?)の「手口」をまねて実現した自民党憲法について、ある国の政治家がこういった。「憲法は、ある日気づいたら、日本国憲法が変わって、自民党憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。」
    このような読み替えは、ブラックジョークというのでしょうか、ホワイトジョークというのでしょうか。一般ピープルには分かりません。しかし、ここで、文全体の構造上、ワイマール憲法ー日本国憲法、「ナチス憲法」(?)ー自民党憲法草案という対応関係になることは確認しておいて良いことです。
    さて、最も重要なのは、「あの手口」と関連する以下の文の意味です。
    「わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。」

    この文について、日本語を母国語とし、通常の日常生活を営んでいる一般ピープルの国語力からすると、次のような解釈となります。つまり、「わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね」の、〈わーわー騒がないで、みんながいい憲法と納得して変わった憲法〉とは「ナチス憲法」(=「全権委任法」)以外にあり得ないですよね。つまり、彼は、「ナチス憲法」は、喧噪の中で決められたわけではない、民主的手続きを経た憲法だ、という肯定的な評価を下しているということなのです。そして、こうした文脈の中で、
「ぜひ、そういった意味で」、すなわち、ナチスのやり方は〈わーわー騒がない〉いい手口だったのだから、「僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが」、すなわち、ナチスがいいというわけではないけれど、重ねて、〈わーわー騒がない〉ナチスの手口をみならって、「喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない」ということになるのです。ということで、麻生財務大臣は、まさしく、ナチの手口を「良き例」としてとり上げているということは間違いないでしょう。こうして、まず、(1)「けん騒に紛れて十分な国民的理解や議論のないまま進んでしまった悪しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法の経緯を挙げた」などといった彼の弁明はまったく成り立つ余地はないと考えられるのです。勿論、ヒトラーの政権掌握と「全権委任法」の成立を「わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね」とする評価が、事実として正しく、また、許されるものなのかは別問題としてもです。

     さらに、それとも関連しますが、(2)「私がナチスおよびワイマール憲法にかかる経緯について、極めて否定的に捉えていることは、私の発言全体から明らかだ」という方はどうなのでしょう。勿論、それは次の部分を強調したものなのでしょう。
    「僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラーは出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
     そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。」

     実は、こうした見方は現代史を少し勉強すると必ずでてくるものなのですが、注意すべきは、政治的議論の中でもしばしば見られる、その「両義性」なのです。つまり、その一つは、ナチス政権の暴力性のみが強調される傾向に対して、ベルサイユ体制下のインフレ・失業という危機的状況の中とはいえ、ドイツ国民が、あの民主的なワイマール憲法体制下で、国家社会主義的政策を掲げたあの独裁的で反民主主義的なナチスの政権掌握を許してしまったこと、そのことに対する強い自戒の念を込めて語られてきたものに他なりません。そして、もう一つは、独裁・反民主主義というけれども、それは、あくまでも、ドイツ国民が民主的手続きに従って選択したものなのだとその「正統性」を強調しようとするものです。言うまでもなく、後に出てきた麻生財務大臣の「わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね」という評価はこの流れに属しているといえるでしょう。元々、このような見方は、明治憲法体制下における政治と戦争に対する評価と相同性をもち、いわゆる、「歴史修正主義」的視点を支える一つにもなっていたものです。すなわち、戦前の戦争と政治は(非国民は除いて)国民の圧倒的多数によって選択されたものであって、「良きこと」なのだ、悪かったのは戦争に負けたことなのだと。こうして、ヒトラーのお友達であった戦前の指導者を支持する人々が大勢を占めていただろうあの講演会だからこそ、あの一種のウケを狙ったがごとき麻生発言とそれに対する聴衆の民主政治を嘲笑するが如き反応(ウケ)も理解できるのです。
     こうして、(2)「私がナチスおよびワイマール憲法にかかる経緯について、極めて否定的に捉えていることは、私の発言全体から明らかだ」とする弁明も、ワイマール憲法をいい憲法と一言いってはいるものの、その後の、すなわち、ナチスの政権掌握から全権委任法成立にかけての政治過程の「正統性」を承認し、そのやり方に学ぶということなのですから―――それはまさしくヒトラーの『我が闘争』の「手口」を承認することにさえ通ずる―――、「極めて否定的に捉えている」とは到底言えないということになるのです。
     まあ、私の一般ピープル的感覚から言えば、(その譬えは、次から次へと頭に浮かぶのですが)とにかく、「民主主義を否定するわけじゃない」とか「ナチスを肯定するわけじゃない」とか一言いったからといって、その言葉を真に受けてもらえる程、世界の一般ピープルはナイーヴ(素朴でお人好し)ではないよ、ということだ。まして、その肯定的評価が誤っていると来ては!!

     最後に、湯川礼子さんのツイートを引用しておきましょう。

 「一夜明けて、麻生さんのナチスに学べ問題。それを弁護している大阪の橋本さんにしても、あまりにも島国感覚。自分の発言が即日世界に発信されるネット情報の時代である認識を、政治家としてまず持って頂きたい。どれほど国益を損ない、時間を無駄に使っているか。国家の品格を担う一員だという自覚を。」(8月2日)




【資料1】『朝日新聞デジタル:麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細 』

     僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラーは出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
     そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。
     私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が、ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。

     この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。しかし、そうじゃない。
     しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。
     そのときに喧々諤々(けんけんがくがく)、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。
     ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。
     靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。
     何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。

     僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。
     昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。
     わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。


 【資料2】 日本共産党の志位和夫委員長が2013年8月1日、国会内で記者会見し、麻生太郎副総理のナチズム肯定発言について発表した見解は以下の通りです。

 一、麻生副総理は、7月29日、都内の集会で「(ドイツでは)ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね。ワーワー騒がないで、みんないい憲法と納得して、あの憲法変わっているからね」などと発言した。
 これは、ナチズムを肯定する許しがたい発言であり、麻生氏の閣僚としての資格はもちろん、日本の政治家としての資質がきびしく問われる問題である。

 一、そもそも、ドイツにおけるナチス独裁政権の誕生と、ワイマール憲法の機能停止は、「誰も気づかないで」おこったわけではない。
 1933年1月に首相に就任したヒトラーは、就任直後に国会議事堂放火事件をおこし、それを機に、共産党、労働組合、社民党などを次々に非合法化し、最後には政党の結成まで禁止して一党独裁体制をしいた。その過程で、ヒトラーは、いわゆる「授権法」(全権委任法)を成立させワイマール憲法を機能停止に追い込んだ。
 こうして、ナチス独裁政権の誕生と、ワイマール憲法の機能停止は、「誰も気づかないで」すすんだどころか、無法な暴力と弾圧の嵐のなかで強行されたのである。この「手口」を学んだらどうかなどというのは、むきだしのナチズム肯定と民主主義否定の暴論というほかないものである。

 一、内外の批判の高まりを前に、麻生氏は、この発言について、「喧噪にまぎれて十分な国民的理解および議論のないまま進んでしまったあしき例」としてあげたと弁明し、「ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい」という談話を発表した。
 しかし、麻生氏の発言は、「あの手口を学んだらどうか」とのべているのであって、「あしき例」として言及したものだなどという弁明は、到底なりたつものではない。

 一、戦後の国際秩序は、日独伊のファシズムと侵略戦争への断罪を共通の土台としてつくられているものである。その土台を否定するものに、国際政治に参加する資格も、日本の国政に参加する資格もないことを強調しておきたい。

servant-murikiの〈参院選2013〉総括――一般ピープルの政治を

 
安倍の「日本取り壊し」が進む
―――でも、荒れ野の中に、「希望」の火も見える―――



  ※ 昨日は、参院選挙の投票に行ってきました。私が投票した候補者は当選しませんでしたが、まあ、こんなものでしょう。結果は、投票率52%そして全有権者の20%弱の得票で、安倍自民党「圧勝」という結果でした。投票日前から自民の圧倒的優勢が伝えられる中、選挙についてはほとんど触れない人、あるいは、選挙後の厳しい状況の中で如何に生きて行くべきかを考えているような人、色々な人がいた様に思われました。私自身は、気分が悪くなるのは予想していましたので、防衛機制を色々働かせ、なんとか心の平静を保っていました(苦笑)。ただ、これからの日々を考えると、今回の選挙についての一定の評価も必要と思われます。以下、その覚え書きです。

アベノミクスへの幻想

     今回は、ほとんど開票速報を見ませんでしたが、なぜ安倍自民党が勝ったのかといえば、いうまでもなく、投票者の相対的多数がアベノミクスの景気浮揚効果に期待したからなのでしょう。株価が上がったとか、円安によって輸出関連企業の収益が増大したとか、雇用や求人が増加したとか、虚実織り交ぜた様々なプロパガンダが功を奏したということです。しかし、再度確認しておくならば、現象的な数値的景気上昇を生み出した「財政出動」や異次元の「金融緩和策」も、確かに一部の富裕層や自民党支持者には現実的な利益をもたらしているでしょうが、一般庶民にとっては、単に実感が伴わないというだけではなく、実際は、一般大衆の負担、すなわち、〈税の先取り〉や〈インフレ・物価高〉によって、それらが行われているということが重要なのです。それらは間接的に、かつ、時間差を持って行われますから、直接的な負担を感じさせないよう仕組まれているのです。しかし、これからは、福祉目的などといった理由付けを伴う消費税増税などによって、その負担は一層加重されていくのです。さらに、自民党の「成長戦略」などは、原発政策を見ても分かる様に、自民支持の既得権益層の利益にのみ配慮したものであって、人類がこれから目指すべき持続可能な新たな産業構造に向けたものではあり得ないでしょう。こうして、イスタブリッシュメントの利益は、大衆課税や福祉削減など様々な形で仕組まれる、一般ピープルの「痛み」によってのみ実現されて行くのです。
     結論から言えば、国際金融資本支配下の国際経済の流れからいっても、世界的な生産力の上昇は難しいでしょうから、アベノミクスは、まさしく、「アホノミクス」として、「失敗」(=日本の国民経済と生活の破壊)を宿命づけられていると言って良いのです。さあ、その時、どのようにして、私たち一般ピープルは自らの「命と生活」を守ることができるのでしょう。また、その時には、その「失敗」を糊塗しようと、再び、国内における「犯人」探しや「外敵」の強調がなされるでしょう。その時が、日本国憲法、最後の試練の時です。これからの4年間が、今後50年の日本の姿を決めることになるでしょう。


特に良かったと思うこと

(1)山本太郎(東京)の当選―――あの若者がやってくれた。多くの若者たちの支援を受けながら、私たちが今最も真剣に対処しなければならない諸問題(原発、TPP、そして、労働問題等)について、非妥協的かつ舌鋒鋭く論じる姿には感動をさそうものがありました。日本の政治システムとあの職業政治家たちに対する不信感は、投票所に足を運ぶ者にとってさえ拭い難いものがあったのです。この若者の政治参加は、こうした閉塞感を突き破る、新しい可能性を感じさせてくれたるものだったと思います。今後、マスコミをはじめとするイシュタブリッシュメントからの攻撃は想像以上のものとなるでしょう。しかし、あくまでも、その志を貫き通し、頑張ってほしいものです。期待しています!

(2)糸数慶子(沖縄)の当選―――沖縄はやはり私の信頼を裏切りませんでした。沖縄には、どれだけ多くの利益誘導や恫喝が行われたことでしょう。しかし、沖縄の人々は、〈本当〉の「命と生活」を守り、実現するために、彼女を選択したのだと思います。私も、困難な状況の中でも、そうした価値観を持ち続けることができればと思います。ところが、これに対し、福島の人々は自民党を選択することになりました。その思うところを正確に察することはできないにせよ、それは、今の日本の悲惨な状況を最も悲劇的な形で表わしていると思わざるをえません。双葉町の井戸川さんを始め、福島の被災者そして福島の〈意識的〉な人々には、今後、より困難な日々が待ち受けているかも知れません。しかし、「理」はあなたたちにある、私はそう信じています。

(3)共産党の健闘―――〈自共対決〉という言葉が使われていますが、やはり、現在の議会政治のシーンの中で、自民党をその政治的代表部とするイスタブリッシュメントの支配に対し、最も一貫して反対を貫いてきたのは日本共産党ということになるのでしょう。とりわけ、社民党と民主党が、その政権への参画を条件に、現在の日本が抱える最も喫緊の問題を生み出している根本原因ー構造に対して極めて非原則的な妥協と受容の姿勢を見せてその支持者を裏切り、今日の政治不信の大きな原因の一つを生み出したことを考えれば、その存在は非常に大きな意義を持つといえるでしょう。日本共産党には、(その組織論的な問題点を自省しつつ)、その原則的で批判的立場を守り、政党としての信頼感を失わず、活躍してほしいと思います。


日本の民主政治は?

     それにしても、比例代表の得票率からいえば、総有権者数に対する自民党のそれは、「投票率」52.61%の34.6%、すなわち、18.2%でしかないのです。この政党が、議席の過半数53.4%をとっているのです。原発、消費税、TPP、福祉など国民多数の意見は国会の場には反映されていないと言ってよいのです。選挙前のマスコミによる政府・自民党のあの圧倒的な支持率は何だったのかとも思うのですが、このような詐欺にも似た政治構造がまかり通っている限り、日本の政治の民主主義的な運営はあり得ないというべきでしょう。
     私たちは、私たち自身の「政治」参加の形を、その第一歩から考えて行く必要があると思います。私も、マジで、考えていきます。

  
18.2%の安倍自民党が圧勝?それって、「詐欺」でしょう!




基本的人権の普遍性について―――近松門左衛門によせて

 
「浮き世」を憂える「人情」に 



     7月12日のブログで、自民党憲法「改正」草案から日本国憲法97条が全面的に削除されていることについて触れましたが、そのことは、アベッチたちが、天賦人権(全ての人が生まれながらにして持ち、誰からも奪われない権利)論に基づく日本国憲法の「人権」規定に根強い抵抗感を持ち、さらに直裁にいえば、国民のそうした「人権」を制限し、新しい〈義務〉を課したいと強く意図しているのだということを、はっきりと認識しておかねばなりません。元々アベッチたちが主張している「自主憲法」とは、大日本帝国憲法=「明治憲法」をモデルとしたもので、そこで規定されていた「臣民の権利」とは、中江兆民流に表現すれば「恩賜の民権」であって、天皇の家来である「臣民」が支配者たる天皇から恩恵として与えられた権利に過ぎなかったのです。それ故に、もし〈為政者〉にとって都合が悪くなった場合には、それらはいつでも制限ないし停止できるものとして把握されていたのです(「法律の範囲内」、「天皇大権」)。そして、こうした「人権」規定の下では、「臣下」としての国民の、天皇・国家に対する「義務」・「責任」が強調されていたのですが、その中核的な位置にあったのが、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」る、つまり、天皇のために命を捧げる〈兵役の義務〉であったことは言うまでもありません。さらに、こうした「人権」規定そのものを正統化していたのが、西欧的な個人主義(「個の尊重」)とは異なる、日本の歴史的伝統、すなわち、(建国神話に基づく)天皇への「敬愛」や「忠誠心」だったというわけなのです。一時の権力者にとって、これほど都合の良い理屈はなかったことでしょう。そして、現在の自民党の憲法「改正」草案の根底にあるものも、これと五十歩百歩のものであるということは忘れてはならないことなのです。

     ところで、私たち日本国民にとって、日本国憲法が「侵すことのできない永久の権利」と規定した「基本的人権」は、日本民族の「文化」には合わない、それこそ、外国から押し付けられた「権利」ということになるのでしょうか。「日本人」は、日本国憲法で規定された「自由」や「平等」や「人としての幸福」を求めていなかったということなのでしょうか。逆に言うと、基本的人権という概念は、歴史的あるいは文化的に、「普遍性」を持たないというのでしょうか。

     私は、若い頃、近代民主政を支える「基本的人権」(自然権・自然法思想)という概念の〈普遍性〉について考えたことがありました。そして、その時の結論は、意識的にせよ無意識的にせよ、あるいは、それが言語的にどう表現されるかどうかは別として、また、人格的あるいは階層的な差違もあるだろうけれど、近代西洋において「自由」とか「平等」とか「幸福」などといった言葉で表現されたものは、おそらく、それが支配的であるか潜在的であるかは別にして、人間の基底的な〈欲求〉として、時代や場所を超えて存在しただろうし、又、これからも、それが孕む様々な「矛盾」や「限界」を克服しながら、存在し続けるだろう、というものでした。(←スパルタカスの反乱)

     また、日本についていえば、私が35年ほど前に井原西鶴の『好色一代男』を読んだ際、―――私自身は世之介とは全く違うタイプに属するのですが(苦笑)―――、彼の生き方の中に、封建的身分秩序を突き破ろうとする、人間性の解放に近い欲求を感じたことを記憶しています。また、溝口健二監督の『近松物語』に触発されて、近松門左衛門の戯曲も何編か読みましたが、私は、そこで人々を泣かせた〈人情〉の中に、日本の「一般ピープル」の封建的身分社会(「義理」)に対抗する「自由・平等・幸福追求」の如き〈欲求〉を感取できたように考えたのでした。

     例えば、近松の代表作『曾根崎心中』は、「誰が告ぐるとは、曾根崎の森の下風音に聞え 取り伝へ、貴賎群衆の回向の種 未来成仏疑ひなき、恋の手本となりにけり」で終わるのですが、私が注目したのは、冒頭の「観音廻り」の最後の部分、「さしも草、草のはす葉な世に交り 三十三に御身を変へ、色で導き、情で教へ 恋を菩提の橋となし 渡して、救ふ観世音、誓ひは 妙に有難し」(観世音様は、衆生の浮薄な世に交り、三十三体にお姿を変え、色で導き、情で教え、恋を悟りへの懸け橋として、彼岸へ渡して救うてくださる。この観世音の御誓いは言いようもなくありがたい)でした(『日本古典文学全集 近松門左衛門集(一)』小学館)。すなわち、近松の基底的な価値意識は仏教であったようですが、この文を私なりに読めば、それは、仏教の「平等」観ないし「自由」観によって(?)、封建的な身分秩序の正統性を否定する、いわば、「性と文化」の〈革命〉宣言であり、勿論、全く同じものではありえないにしても、現在私たちが考える「自由」や「平等」への希求と通底するものがあったと言って過言ではないと思うのです。この他にも、「浮き世」の「義理」と若い男女の「人情」との葛藤を一番分かりやすい形で構図化している『五十年忌歌念仏』(西鶴の『好色五人女』におけるお夏清十郎の話とは異なります)、また、近松の最高傑作と考えられる『心中天の網島』などは、人権概念の普遍性を考える上で、尽きることのないイメージを与えてくれると言ってよいと考えられました。(―――そこには、「人情」の多面性や多義性、そして、「義理」の多面性(身分や金など時代拘束的なそれと普遍的あるいは一般ピープル的な「信義」としてのそれ)など興味深い視点を数多く発見できます。この点については、又稿を改めて論じたいと思います)

     ところで、過日、歌舞伎座で『平家女護島 二段目 俊寛』を観たのですが、昨日、やっとその原文が載っている本(『鑑賞 日本古典文学 近松』角川書店)を入手でき、読むことができました。その結果、先に述べた私の印象はさらに一層強められたと言って良いと思います。成経と千鳥との〈身分〉を超えた恋、俊寛と妻あずまやとの一途な愛、それに対する、封建的支配者たる瀬尾や清盛の横暴。千鳥の「ものゝふはもののあわれ知るというは偽り、そらごとよ。鬼界が島に鬼はなく、鬼は都にありけるぞや」という言葉、それは、まさしく、人間の最も基本的な幸せの基礎をなす、男女の性愛を否定する封建的な秩序に対する批判に他ならないといえるでしょう。また、「俊寛が乗るは弘誓の船(菩薩が衆生を助けて彼岸に渡す誓願を船に例えていう語)、浮き世の船には望みなし」という俊寛の言葉は、「浮き世」そのものの革命的な変革ではないにしても、その否定に基づく、新しい世界の希求であることは間違いないことでしょう。

     近松の人形浄瑠璃や歌舞伎を見て涙を流した、江戸時代の一般ピープルの心には、おそらく、言葉としてはなかったにせよ、間違いなく、あの男女が「自由」であり「平等」であり、「両性の合意」によってのみ結ばれて「幸せ」になることができれば(!)、という思いが存在したに違いありません。すなわち、日本人の歴史の中にも、基本的人権たる「自由・平等・幸福追求」を目指した〈想い〉と〈闘い〉が存在したということです。そして、こうした日本人の心の中に存在する、人間としての普遍的な〈欲求〉を無視するがごときは、まさしく、彼らが、「瀬尾」であり、「清盛」であることを示すものと言ってよいに違いないのです。
 
     日本国憲法の人権規定の〈破壊〉を許してはならない! 
              日本国憲法の基本的人権を深化・発展させねばなりません!
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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