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オリバー・ストーンの『スノーデン』を観てきました

〈監視国家〉と人間の自由の核たる〈プライバシー〉
   ――権力の濫用と暴走に抵抗するアメリカの市民たち 



   ※先ほどテレビを見ていたら、トランプとアベが抱き合っていました。本当に気持ちが悪い‼️ いくら「似た者同士」とはいえ、あの〈節操〉の無さは、まあ「恥」と表現する他は無いでしょう。それにしても、合衆国の理念・憲法に反するトランプの暴走に対して敢然と立ち上がっているアメリカの「エリート」と「市民」はやはり大したものだと思います。それに対して、トランプにも劣らないアベの〈暴走〉を許している日本の「エリート」と「国民」は一体どうなっているのでしょう。これからも、「日米同盟の強化」と言う名の下に、アベ「買弁」勢力による軍事的・経済的な〈対米従属〉が推し進められていくのでしょう。つくづく情けなく思います。

   さて、先日、前から楽しみにしていたオリバー・ストーン監督の『スノーデン』を観てきました。この作品は、元CIA(中央情報局)及びNSA(国家安全保障局)職員だったエドワード・ジョセフ・スノーデンが、アメリカ国内はもちろん世界全体にまで張り巡らされた、NSA・CIAによる大規模監視の実態を〈内部告発〉した事実に基づいたものです。この〈内部告発〉については、映画にも登場し、この件に直接関わったグレン・グリーンウォルトの著書『暴露 スノーデンが私に託したファイル』やローラ・ポイトラスの映画『シチズンフォー スノーデンの暴露』、そして、NHK/BS世界のドキュメンタリー『NSA国家安全保障局の内幕』(全3回)などで詳しく知ることができます。グレン・グリーンウォルトの本は、憲法と市民権専門の弁護士であった彼の本領が遺憾無く発揮されたもので、とりわけ、第4章「監視の害悪」はこの問題を考える上で大変参考になるものです。また、ローラ・ポイトラスのドキュメンタリーは、まさしく、スノーデンの「暴露」の過程を直接撮影したもので、スノーデン本人の人柄を感じとる上でも極めて貴重な記録といえましょう(本物のリンジーも写っています)。また、BS世界のドキュメンタリーの『NSA国家安全保障局の内幕』も、より長いスパンで問題が掘り下げられており、これからも再放送されると思われますので、未見の方には是非お勧めしたいと思います。

   それでは、今回のオリバー・ストーン監督作品について、私自身の感想を幾つか述べておきます。

   まず、第1に、この作品が国家権力の闇に光を与えた(「彼らが恐れるのは光です」)スノーデンに対するオリバー・ストーン監督の共感に支えられているだろうことはもちろんですが、これは、あくまでも、興行用の作品として作られたものです。そして、こうした観点から考えても、私には、オスカーをとった『プラトーン』や『7月4日に生まれて』、そして、『JFK』や新自由主義的な(国際)金融資本の不条理を巧みに描いた『ウォール街』や『ウォール・ストリート』よりもはるかに感動的で、彼の最高傑作なのではないかと感じられるのです。主人公であるスノーデンの視点から構成されるヒッチコックばりのスリルとサスペンスに満ちた展開、そして、「ヒーロー」としてのスノーデンの人格や思想に対する抑制され考え抜かれた表現、そして、「十年来の恋人」リンジーとの緊張感あふれる関係等々、2時間が大変短く感じられる作品でした。
      
   第2は、日本に関連する興味深い指摘です。政府はNSAやCIAによる大量監視体制(「全てを収集する」)をテロ対策を名目にして正当化しようとするわけですが、実際は、テロ対策としての効果などほとんどないに等しいと指摘されるものなのです。これに対して、実際に行われているのは、その大部分が、国内の「政敵」や外国に対する外交的・経済的な目的にのための諜報活動です。そうした例の一つとして映画で取り上げられているのが、Xkeyscoreを用いた個人情報の収集やマルウェア(悪意ある不正ソフトウェアやプログラム)によるハッキング行為です。映画では、スノーデンに「日本の通信システムの次にインフラも乗っ取り、密かにマルウェアを送電網やダム、病院にも仕掛け、もし日本が同盟国でなくなった日には、日本は終わりだ」と語らせています。この点について、来日したオリバー・ストーン監督は、1月18日の記者会見で、「スノーデン自身から僕が聞いたのは、米国が日本中を監視したいと申し出たが、日本の諜報機関が”それは違法であるし、倫理的にもいかがなものか”ということで拒否した。しかし、構わず監視した。そして、同盟国でなくなった途端にインフラをすべて落とすように民間のインフラにマルウェア(不正プログラム)が仕込んであるというふうなことです」と述べています。(この点については、「IWJ Independent Web Journal」
:http://iwj.co.jp/wj/open/archives/357253や「デイリー新潮」:http://www.dailyshincho.jp/article/2017/02020557/?all=1、などの関連記事を参照してください。)こうしたアメリカの「同盟国」にも向けられた「サイバー攻撃」の動きに対して、少なくとも2009〜2010年の民主党政権は抵抗したようですが、その後成立したアベ「買弁」政権は、自らの集団的利益の実現のために、アメリカの世界支配の目論見に無批判的に盲従し、自国民の基本的人権を売り渡そうとしてきたのです。「特定秘密保護法」の強行採決や「共謀罪」成立への策謀はそのことを明確に示すものです。ただ、いくらすり寄っても、一心同体の「ファイブアイズ(米英加豪新)には入れてもらえないのです。本当に、本当に恥ずかしいことです。
  
   最後に、どうしても考えざるを得ないのが、良心に従い、恵まれたキャリアや生活を犠牲にしてまでも、人間の自由を守るために行動するスノーデンのような「強い個」がどうしてアメリカに次々と出現するのかということです。日本の場合には、「強い個」というと、主に武士身分に浸透した儒教的倫理の影響といった事例を見ることが多いように思われますが(本当か?)、アメリカの場合は、やはり、「普通の人々」にまで浸透した自由・平等・独立といった価値意識(「独立自尊」?)が強く感じられるといえるでしょう。それにしても、国民に対する全般的な監視体制(「プライバシーの侵害」)による管理主義的な誘導・操作の効果(従順さを生み出す権力への同調圧力)は、日本においては、いっそう深刻な意味を持っているよう考えられます。話を戦後に限ってみても、長い間の「管理主義教育」や企業による「能力主義的管理」に慣らされてきた日本民衆は、それに対抗する〈生きた人間〉としての〈潜勢力〉を反省的に自覚することができるのでしょうか。私たち日本民衆の一人一人に問われていることのように思われます。

『この世界の片隅に』を観て考えたこと

    「世界の片隅に」普遍的な〈愛〉をみつける



   ※良質の映画を見る事は幸せなことです。とりわけ、不誠実極まりない歪んだアベ政治の現状を前にしているとその感を強くします。ところで、以前、この映画の原作、こうの史代さんの『この世界の片隅に』について触れた事がありました(http://saromuriki.blog.fc2.com/blog-entry-59.html)。あれから4年、じっくり作り込まれた作品が完成したのです。いち早く観てきた(どことなくすずさんに似ているような)「姉貴」が「良かったよ」というので、私も早速近場の映画館に駆けつけてみました。期待を裏切ることのない、素晴らしい作品でした。

   歳をとると涙腺が緩むと言いますが、私は、冒頭に流れたフォークルの『悲しくてやりきれない』からウルっときてしまいました。そして、観終わった後私の脳裏に浮かんだのは、私自身意味不明なのですが、〈「ポスト・モダン」的「状況」の中に香る”普遍的”な愛〉なるものでした。とはいえ、なぜ私がこの原作と映画に感動したかといえば、それは、「大状況」と「大イデオロギー」(「大きな物語」と「大きな正義」)とは水準を異にする、「世界の片隅」に生きる「ふつうの人々」の生き方と思想に、その「大状況」と「大イデオロギー」を根底的に批判しうる可能性を感じたからなのだと思います。また、こうの史代さんの好きな言葉にアンドレ・ジッドの「私はいつも真の栄誉をかくし持つ人間を書きたいと思っている」があるとのことですが、私は、すずさんやリンさんや周作さんや水原さんの生き方と言葉に、そうした人間としての「栄誉」を感じることができたと思っています。

   それでは、この物語のキー・ワードと考えられる4つをあげておきましょう。ただし、映画と原作との間には、〈設定〉―――とりわけ、原作の横糸とも思われる、(水原=)すず×周作(=リン)の関係におけるそれぞれの「こだわり」とそれからの「解放」―――や〈セリフ〉に若干の相違があります。その事の意味することやその評価についてもまた別途考えたいとは思いますが、ここでは、記憶力の問題もありますので、主に原作に即しつつ論じておきたいと思います。

 ○「どこにでも宿る愛」ー「あちこちに宿る切々のわたしの愛」

  「個」と「類」、そして、それを媒介する様々な「集団」の〈内的・外的〉関係は、極めて複雑で矛盾に満ちたものです。しかし、「神は細部に宿る」とも言われますが、人間社会を「人間」社会たらしめてきたのは、個々人一人一人に宿る、人間を「人間」たらしめる基底的な〈感情〉―――それらは、古今東西、「慈悲」、「仁」、「愛」、「憐憫の情」、「ピティエ」、「シンパシイ」等々、様々な宗教的・哲学的概念によって把握されようとしてきたもの―――に他ならなかったろうと思われます。実際、巨大な暴力や差別の状況の中にあってすら、そうした〈感情〉(「愛」)を大切にし、育み、生きようとした、すずさんやりんさんのような「普通」の人々が存在したのです。そして、そのような人々の存在によってこそ、人々は絶望と憎悪の淵に沈みこむことなく、存在し続けることができたのだと思います(「どこにでも用意さるゝあなたの居場所」)。いうまでもなく、「栄誉」はこうした「普通」の人々にこそ与えられるべきでしょう。

 ○「すず お前はほんまに普通の人じゃ」(水原晢)

  これは、すずの幼なじみである、海軍志願兵水原の言葉です。また、彼はすずに「この世界で普通で・・・まともで居ってくれ」、そして、彼が死んだとしても、彼を「英霊」としてではなく(「普通」の一個人としての)「おれ」として思い出してくれとも言い残します。これらの言葉は、すぐさま、この世界でなにが「ふつう」で「まとも」なのかという問に繋がりますが、それは、水原自身の家族や同胞への思いが、軍隊という国家組織や「愛国心」という「大きな正義」に「包摂」されたときに生まれた「歪み」(「人間の当たり前から外された」〈不条理〉)故に発せられた言葉だったと考えられます。もちろん、こうしたことは、女性の結婚や出産などに関わる差別的な社会的風潮の中で悩み、また、「歪んだ」大義を振りかざす戦争という巨大な暴力によって〈右手〉を奪われたすずについても言い得ることでしょう。しかし、すずはこうした「歪み」に負けず、「普通」に「当たり前」に生きて行こうとする強さを持っていたのです。そして、いうまでもなく、こうした一人一人の「ふつう」で「当たり前」な生活が〈歪められる〉ことに真正面から向き合い、「当たり前に」〈怒り〉そして〈抵抗する〉ことが、「個の尊厳」と「基本的人権」を基底的な価値とする「民」主主義の原点だと言って良いと思います。さらに言うならば、〈国家〉イデオロギーとしての「愛国心」のレベルにおいては〈国家〉間の「戦争」は根底的に批判し得ず、それは、こうした「個の尊厳」に基づく一人一人の「基本的人権」・「平和的生存権」の視座によってこそ可能と思われるのです。いうまでもなく、「一般ピープル」は、差別し、暴力を振るう存在でもあります。しかし、それを乗り越えるのも「一般ピープル」の「普通」で「まとも」な人々なのだと言えるのではないでしょうか。

 ○「そんとな暴力に屈するもんかね」(すず) 

  この言葉は、広島が被爆した後、空飛ぶB-29の編隊を見つめながらすずの口から発せられた言葉です。また、すずは、敗戦の詔勅を聞いた後、「この国から正義が飛び去っていく じゃけえ 暴力に屈するという事かね それがこの国の正体かね」とも言います。朝鮮半島やアジアの国々を暴力によって侵略し、そこに住む「普通」の人々の生活を破壊した「国家の大義」は脆くも崩れ去ったのです。それでは、いかなる暴力にも屈することのない、すずの「正義」とは何なのでしょうか。言うまでもなく、それは、「普通」で「当たり前」な人々の生活を基準とするものに他ならないと考えられます。そして、そうである限り、「面従」することはあっても、暴力に屈して虚偽のイデオロギーを受容することもなく、逆に、不条理な暴力を笑い飛ばし、さらに、どのような場所においても、「当たり前」に生きるために全力を尽くすのです。そこには、「普通」で「当たり前」な人々の意地と勇気さえ感じられるのです。

 ○「りんさんの事秘密じゃなくしてしもうた・・・これはこれでゼイタクな気がするよ・・・」(すず)  
   しかし、戦争や差別などの不条理に〈歪められた〉「普通」の人々は、悲しいこと、辛いこと、悔しいこと、恥ずかしいこと等々に悩み、苦しまざるを得ません。そして、私たちの多くは、閉塞的状況の中で、諦め、忘れることでその苦しみから「解放」されようとするのです。そして、リンの言う、記憶を秘密にして死んでいく事の「贅沢さ」とは、その究極的な表現とも言えましょう。戦争体験を一言も話さず墓場まで持っていくと語る元兵士たちの苦しみはいかばかりのことだったのでしょうか。しかし、すずが可能だったように、記憶を〈分かち合う〉ことも出来るのです。そして、そうした存在を身近に持つ事は最高に〈贅沢〉な事なのかも知れません。
   このアニメ映画に登場する呉の街並みは、当時呉に生きていた人々の記憶を掘り起こし、その「かけら」を寄せ集めて再現したものだと聞いた事があります。世界の片隅で生きる「普通の」人々がその記憶を世代を超えて分かち合う事の大切さ、これもこの映画を見て感じたことです。私が流した涙の質は、直接戦争を体験はしなかったものの、戦争を生き延びてきた親世代の体験を聞きながら育った私たちが、そんな親世代の想いを分かち合い、心寄せることによって生まれてきたもののようにも感じられました。

   13日(火)沖縄で2機のオスプレイが事故を起こし、15日(木)には国際的にも国内的にもほぼ「最悪」のアベ=プーチン会談が行われました。ここでも、私たちは、〈国家の論理〉を〈私たちの普通で当たり前の論理〉によって乗り越えなければならないのだと感じました。

サロさんありがとう この世界の片隅で仲良くやろうや!
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『MEGA CRISIS 巨大危機』( 第1集・異常気象)を観て

「引き返せない」現実を前に何をどう学ぶのか
    ―――そして、脅威と闘うのは誰なのか?!




失敗を振り返り見て反省だね
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   ※先週の日曜日、テレビで『ガンダム・ユニコーン』(最終回・第22話)を見終わりました。仕組まれた「ニヒリズム」に支配されることなく「可能性」を信じて生きていくこと、そうしたことを〈メッセージ〉としていたようです。そして、昨日は、劇場版『逆襲のシャア』も見ました。娯楽作品にしようとするためだと思われますが、様々な心理的コンプレックスがはめ込まれていたようです。この後は、「2nd兄貴」から小説本(1)〜(3)を借りて読む予定です。まあ、「ガンダム世代」を理解するのには良い機会となるかもしれません。

   ところで、最近、とりわけ興味深く見たテレビ番組に『MEGA CRISIS 巨大危機〜脅威と戦う者たち〜 第1集 加速する異常気象との闘い』があります。先日も第2集(地震予測)を見ましたが、第1集の方に何か引っかかるものが感じられました。
   第1集は、とりわけ、スーパーセル(巨大積乱雲)がらみの大規模な落雷による電子機器類への被害、そして、北極圏の永久凍土融解による(二酸化炭素の10倍もの温室化効果を持つ)メタンガスの放出ということがポイントのようでした。ただ、私がどうしても引っかかったのは、科学者が繰り返し述べた「地球温暖化はもう引き返せないところに来ている」という発言に対してでした。事実はその通りなのでしょうし、それを前提として、どのような対策が立てられるのかを科学的に探求していくことが必要かつ現実的なことだ、ということもわからないではありません。しかし、この「前提」を改めて問い直してみることこそが、地球温暖化はもとより、より長期的な人類の未来にとって必要なのではないかと私には感じられたのです。

   と言いますのは、私は20年ほど前に、もうタイトルは忘れましたが「地球温暖化」に関するNHK・スペシャルを見てかなりの衝撃を受けているのです。その番組では、今私たちが直面しつつある巨大台風のことはもちろん、海面水位の上昇や砂漠化や飢饉など、これから現実化しそうな事柄が既定事実のように予測されていたのでした。さらにいえば、地球環境問題への警告はもっともっと遡ることができるのです。しかし、人類は、自然の中に生きるものとしての自覚を明確化し得ず、巨大な産業文明の「暴走」を「引き返すことのできない」ところまで許して来てしまったのです。科学者たちの警告や実際に被害を受けつつあった人々の叫びを前に、「人類」は―――科学者たちは、「エスタブリッシュメント」たちは、そして、「一般ピープル」は、一体何をしていたのでしょうか。

   もちろん、家庭での省エネから気候変動枠組条約締約国会議(COP)まで、これまでも様々な領域で様々な努力が積み重ねられてきています。しかし、結局、エネルギー多消費の社会・経済構造を転換させることはできず、「引き返すことのできない」ところまで来てしまったわけです。すなわち、必要だったのは、そうした構造に〈既得権益〉を持つ諸集団に〈公共〉的な規制をかけることだったはずなのですが、私たちはそうした〈公共〉的世界を作りだすことに失敗しているのです。もちろん、私たちは、「狭い」日常生活を送る「一般ピープル」ではありますが、こうした人類の生存すら脅かしかねない「地球規模」の問題に適切に対処することなしには、私たち自身を守ることもできないのです。そして、「分業」を前提として、そうした対応を「専門家」や「政治エリート」たちに任せてしまうことができるのならば「楽」なのですけれど、「科学者」たちにしても、「政治家」たちにしても、「個」としての彼らの〈力〉には限界がありますし、また、既存の体制を支配する「エスタブリッシュメント」たちのあのあまりにもお粗末な有様を見ていると、やはり私たち「一般ピープル」自身がしっかりして、「政治」を変え、脅威と戦っていかなければならないのだと強く思うのです。そうでなければ、また、同じことの繰り返しです―――それにしても、辺野古に関する福岡高裁那覇支部の判決はひどいですよね!まあ、ああやって出世していくのでしょうけれど。また、築地の卸売市場の豊洲移転に関する石原元知事や都の役人たちの「嘘つき」体質もすごいですよ。また、「権力政治」観の中で、ただ只管〈緊張〉を激化させながら国内統合と軍産複合体の利益を増進しようとする「安保村」の連中の腹の中も見え見えということでしょう。

   何しろ、このままでは、未来を生きていかねばならない若者達、そして、これから生まれてくる子供達が気の毒すぎるように感じられます。つまらぬ政治屋による統合(「ポピュリズム」)に乗せられてはいけませんが、私たち「一般ピープル」こそ、「脱政治化」してはならず、社会全体への関心を高めて、私たちの命と生活を守るため、私たち自身の「公共」を作っていく必要があるのだと思うのです。


  【追伸:つぶやき2つ】

  ◯地球温暖化による異常気象の被害のうちこれから特に心配なのが世界的規模での飢饉です。それでなくても食料自給率の低い日本。TPPなど正気じゃないでしょう!

  ◯蓮舫・民進党の幹事長が野田なんだって?!何考えているのだ?信じられない!

『 ロッキード事件』と『とと姉ちゃん』について

ロッキード事件は未解決である!
  「日米の巨大な闇」そりゃ、あの「ライン」でしょう?!

 

   ※我が「農園」の夏野菜もほぼ終わりに近づきました。それにしても、今年の春から借りることになった土地に深く根を張るあの凄まじい葦たちには、敢え無く「降伏」する他ないようです。通りがかりの方々からも「絶対勝てませんよ!」と忠告されていたのですが、私一人で「かれら」を制圧するには年を取り過ぎているようです。無念です(`o´)!
   無念といえば、最近の尋常とは思われない国内外の社会状況を見ると、同様の想いがひしひしと胸に迫ってきます。とりわけ、参院選後のアベ政権による沖縄〈いじめ〉とそれを許している本土の人間たちの「心の〈闇〉」を考えると、心底、嫌気がさしてきます。もちろん、「安心して年をとることもできない」私たち高齢者の現状も、「安心して働き、結婚し、子供を育て、生活することもできない」若者たちの現状も、根を同じゅうすることは明らかなことです。それにしても、こうした状況を許している、人間を人間たらしめるはずの〈感性〉の「劣化」は どのように生み出されてきたのでしょうか。


   ところで、先週、NHKスペシャ『未解決事件「File.5 ロッキード事件」』(第1〜3部)を観ました。この番組は、元首相が逮捕され有罪判決を受けるという戦後最大の疑獄事件=「ロッキード事件」の「全貌」を探ろうとする意欲作でした。とりわけ興味深かったのは第3部でしたが、まずは、見逃した方々のために、【番組内容】をHPから転載しておきましょう。

 「今からちょうど40年前の1976年7月。首相経験者が逮捕されるという前代未聞の展開となった「ロッキード事件」。事件には今なお、多くの謎が残されている。
  ロッキード事件とは、米・ロッキード社製の旅客機トライスターの売り込みをめぐり、日本の政財界に巨額の賄賂がばらまかれたとされる事件。ロッキード社の代理店・丸紅を通じ田中角栄前首相に5億円が渡ったとされ、田中前首相は逮捕。裁判の一審二審で有罪判決を受けた。しかし、捜査にあたった東京地検特捜部が「重視」していた、“戦後最大のフィクサー”、児玉誉士夫のルートは解明されなかった。児玉が知っているとみられた21億円もの巨額のカネの行方は、闇に葬られたのである。
  事件から40年。事件の実相を知るための第一級の資料が次々に発掘されている。NHKは、特捜部の極秘ファイルや関係者たちの証言をもとに、数奇な展開をたどった事件の詳細な舞台裏を映像化。捜査の指揮を執った故・吉永祐介主任検事らの姿などを、実録ドラマでよみがえらせていく。
さらに、アメリカ側から発掘された内部資料や、元米政府中枢への取材から、冷戦時、アメリカの世界戦略の中において、ロッキード事件が果たした知られざる役割、歴史的スクープをドキュメンタリーで浮かび上がらせる。」

   もう皆さんもお気付きのことと思いますが、ここで語られている「ロッキード事件」の〈全貌〉とは、通常、私たちがこれまで抱いてきた事件のイメージとはかなり違ったものです。すなわち、「ロッキード事件」とは全日空の旅客機導入に関わる田中角榮による5億円の収賄事件だと受け取られてきたのですが、今回明らかにされた東京地検特捜部の極秘ファイルや日米の関係者たちの証言から想定される事件の「真相」とは、主に、アメリカからのP3C対潜哨戒機導入に絡まるものなのであり、そして、そうした意味において、21億円という巨額の金が動いた「児玉ルート」の解明こそが問題の核心(闇)だったということなのです。

   実は、これまで私が見聞した限りにおいても、いわゆる「ロッキード事件」とは、あくまでもアメリカからの情報提供によって引き起こされた事件なのであり、そうした意味で、アメリカ政府による全世界的な同盟国諸政府に対する「クリーン・ナップ作戦」の一環であったとか、あるいは、日中国交回復などアメリカとの関係に一定の距離を置こうとした田中角榮に対する懲罰的なものだったとか、様々な説があったのです。ドラマの中でも、東京地検特捜部主任検事の吉永祐介が、アメリカからの情報を前に、「試されているのか、誘導されているのか?」と述べている場面がありましたが、彼の言葉はそうした可能性を示唆するものと考えることもできるでしょう。さらに、そうした田中角栄に対する動きが事実であったとすれば、日本国内にも、田中角栄と「競争」関係にあった、アメリカ政府(−CIA)と緊密に結びついた政治家たちの存在が十分考えられるのです。そして、そうした彼らは、 CIA のエージェント(工作員)であったという児玉誉士夫と非常に仲の良〜い「お友達」(同じCIA のエージェント?!)であったことは間違いないでしょう。

   ところで、児玉誉士夫は、当時日本国内で持ち上がっていた対潜哨戒機の国産化という計画に対抗し、アメリカのロッキードP3Cの導入を推進するアメリカのエージェントでした―――そうした意味で、小型飛行機による児玉邸への自爆攻撃はそうした児玉の「国賊」的動きへの批判であったのかも知れません。そして、その工作の詳細はわからないにせよ、兎にも角にも、中曽根康弘らによって提唱されていた国産化計画は消え失せ、P3Cの導入が決定して行ったのです。もちろん、そうした流れの中で児玉の21億円が大きな働きを為したことは想像に難くありません。そして、その金を受け取ったのは、丸紅ルートと同じように、田中角栄(グループ)だったのでしょうか、それとも・・・それが問題なのです。

   いうまでもなく、〈外交〉政策は、主権者たる国民からもっとも遠くのところで、一部の「権力者」たちによって、秘密裏に決定され実行されていく傾向を強く持ちます。しかし、最近のアメリカの公文書公開などによって、その有様が次第に私たち日本国民にも知られるようになってきています。沖縄の人々を苦しめている(アベの祖父である岸信介らによって締結された)「日米地位協定」やその背後にある隠された「密約」、そして、沖縄返還協定時の(造船疑獄では法務大臣の指揮権発動によって救われた、アベの大叔父である佐藤栄作による)「密約」などです。そして、いうまでもなく、こうした現在にも繋がる「安保村」の主要な潮流こそ、これまでもCIA との緊密な関係が様々に報道されてきた(時間があれば、ちょっと検索して調べてみてください)、岸信介のグループに他ならないのです。そして、その岸と児玉との深〜い関係を否定する人はいないはずです。というわけで、私はこの番組を見ながら、戦後の政治過程の真っ黒けな有様を改めて想像したり、また、なるほどアベはそうした〈対米従属〉の流れをさらに加速させようとしているのだなあと、これまた、暗〜い気持ちになったのです。―――それにしても、甘利問題をはじめ、最近の検察・特捜部の有様は「ロッキード事件」を担った先輩検事たちからも批判される程のひどさです。困ったものです。

   
   ところで、毎日ではありませんが、私は朝の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』も観ています。そして、貧しくはありましたが、ある意味で、夢と人間らしさに溢れた戦後の時代を懐かしく思い出したりもしているのです。実際、我が家では『暮しの手帖』を定期購読しており、私も毎回楽しみに読んでいました。私のお気に入りは(確か滝平二郎の?)「影絵」の物語や清水一の家の設計図でした。他にも、家電などの商品テスト、そして、暮らしのアイディアなどを興味深く見ていました。最近の番組の例でいうと、母は(普段着ではありましたが)直線縫いのような服を着ていましたし、また、余った布切れやボタンなどを大切に保存もしていました。また、私も、りんご箱やみかん箱に綺麗な包装紙を貼って机や本箱として使った覚えもあります―――でも、木箱には隙間があって貼った紙がそこだけ破れてしまうのですよねえ。家はまさしく物置のようでしたが、何か暖かいものがあったように記憶しています。しかし、昔を懐かしむようじゃあ、もう、先が見えていますよねえ(笑)。

「晴耕雨ブログ」―――『夢の江戸歌舞伎』を読む

   江戸の歌舞伎小屋に思いをはせる
       ―――江戸の一般ピープルの〈ハレ〉の場



夢の江戸歌舞伎


   ※今朝、小雨の中サロさんと散歩をしたら眠くなりました。一眠りして、目が覚めたらもう雨が止んでいました。「さて、畑仕事か!」と思いましたが、畑の方は、5月のサツマ芋の植え付けを残してもうやってしまったので、久しぶりに、徒然なるままに、ブログを更新することにしました。お付き合いください。

   さて、私は4月生まれなのですが、今年の「誕生プレゼント」は〈餃子30個〉と〈絵本〉でした。餃子の方は、私が「一度〈飽きるまで〉食べてみたい」と言ったので、それを実現してくれたわけです。お馴染みのCO-OP餃子でしたが、もちろん、十分満足しました。また、絵本の方は、最近私が浄瑠璃や歌舞伎の本ばかり読んでいるので、写真にもある『絵本・夢の江戸歌舞伎』(服部幸雄文・一ノ関圭絵、岩波書店、2001年)を贈ってくれたのです。

   この絵本は、文化文政期の江戸・中村座に見習いに入った少年が「顔見せ興行」の様子を自ら体験しつつ紹介するという形で書かれています。服部さんも示唆していますが、江戸時代の歌舞伎は、現代のような(ある意味で)「お上品」で「文化」的な性格のものではなく、芝居が大好きな役者をはじめとする芝居小屋関係者全員と様々な階層の観衆が一体となってつくりあげる、非日常的で、祝祭的な、もっともっと楽しく面白いものだったようです。それは、芝居小屋の構造そのものにも表れていて、その様子をたくさんの人々の姿と共に緻密にイラストで表現した一ノ関さんの「職人」的情熱にも感服せざるを得ないところです。「ウオーリーを探せ」的な楽しみもありましたが、さらに、立体的に見える「3Dアート」的な処理がなされたらどんな風に見えるだろうなどとも想像しました。故中村勘三郎が「(平成)中村座」を再現しようとした気持ちもわかるような気がします。

   また、この絵本は、その劇場空間を中心とした、巻末の「解説」と「絵注」がとりわけ秀逸で、細かい字で大変でしたが、三日間、熟読してしまいました。それは、舞台上の演技や脚本に焦点が当てられている『歌舞伎十八番』(集英社)などとはかなり異なった印象を与えるもので、「演劇」の本質的な魅力が奈辺にあるのかをを改めて考えさせられるものでした。私は、還暦を過ぎてから見始めた歌舞伎や浄瑠璃に触発され、当時の人々の感じ方や考え方をより明確に知りたいと思い、「日本〈古典〉文学全集」の関連する作品群を読み進めてきました。しかし、この絵本に出会うことによって、(とりわけ演劇ファンだとかお祭り好きであったというわけではない)私のそうした動機が、かなり「主知主義」的な傾向を持っているだろうことに気付かされたのです。確かに「日本〈古典〉文学全集」は面白いです。しかし、それが実際に演じられ、人々が楽しんだ演劇空間の方がより本源的なものなのだろうと思うのです。大切なことを教えられました。素晴らしい絵本です。


プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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