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『この世界の片隅に』を観て考えたこと

    「世界の片隅に」普遍的な〈愛〉をみつける



   ※良質の映画を見る事は幸せなことです。とりわけ、不誠実極まりない歪んだアベ政治の現状を前にしているとその感を強くします。ところで、以前、この映画の原作、こうの史代さんの『この世界の片隅に』について触れた事がありました(http://saromuriki.blog.fc2.com/blog-entry-59.html)。あれから4年、じっくり作り込まれた作品が完成したのです。いち早く観てきた(どことなくすずさんに似ているような)「姉貴」が「良かったよ」というので、私も早速近場の映画館に駆けつけてみました。期待を裏切ることのない、素晴らしい作品でした。

   歳をとると涙腺が緩むと言いますが、私は、冒頭に流れたフォークルの『悲しくてやりきれない』からウルっときてしまいました。そして、観終わった後私の脳裏に浮かんだのは、私自身意味不明なのですが、〈「ポスト・モダン」的「状況」の中に香る”普遍的”な愛〉なるものでした。とはいえ、なぜ私がこの原作と映画に感動したかといえば、それは、「大状況」と「大イデオロギー」(「大きな物語」と「大きな正義」)とは水準を異にする、「世界の片隅」に生きる「ふつうの人々」の生き方と思想に、その「大状況」と「大イデオロギー」を根底的に批判しうる可能性を感じたからなのだと思います。また、こうの史代さんの好きな言葉にアンドレ・ジッドの「私はいつも真の栄誉をかくし持つ人間を書きたいと思っている」があるとのことですが、私は、すずさんやリンさんや周作さんや水原さんの生き方と言葉に、そうした人間としての「栄誉」を感じることができたと思っています。

   それでは、この物語のキー・ワードと考えられる4つをあげておきましょう。ただし、映画と原作との間には、〈設定〉―――とりわけ、原作の横糸とも思われる、(水原=)すず×周作(=リン)の関係におけるそれぞれの「こだわり」とそれからの「解放」―――や〈セリフ〉に若干の相違があります。その事の意味することやその評価についてもまた別途考えたいとは思いますが、ここでは、記憶力の問題もありますので、主に原作に即しつつ論じておきたいと思います。

 ○「どこにでも宿る愛」ー「あちこちに宿る切々のわたしの愛」

  「個」と「類」、そして、それを媒介する様々な「集団」の〈内的・外的〉関係は、極めて複雑で矛盾に満ちたものです。しかし、「神は細部に宿る」とも言われますが、人間社会を「人間」社会たらしめてきたのは、個々人一人一人に宿る、人間を「人間」たらしめる基底的な〈感情〉―――それらは、古今東西、「慈悲」、「仁」、「愛」、「憐憫の情」、「ピティエ」、「シンパシイ」等々、様々な宗教的・哲学的概念によって把握されようとしてきたもの―――に他ならなかったろうと思われます。実際、巨大な暴力や差別の状況の中にあってすら、そうした〈感情〉(「愛」)を大切にし、育み、生きようとした、すずさんやりんさんのような「普通」の人々が存在したのです。そして、そのような人々の存在によってこそ、人々は絶望と憎悪の淵に沈みこむことなく、存在し続けることができたのだと思います(「どこにでも用意さるゝあなたの居場所」)。いうまでもなく、「栄誉」はこうした「普通」の人々にこそ与えられるべきでしょう。

 ○「すず お前はほんまに普通の人じゃ」(水原晢)

  これは、すずの幼なじみである、海軍志願兵水原の言葉です。また、彼はすずに「この世界で普通で・・・まともで居ってくれ」、そして、彼が死んだとしても、彼を「英霊」としてではなく(「普通」の一個人としての)「おれ」として思い出してくれとも言い残します。これらの言葉は、すぐさま、この世界でなにが「ふつう」で「まとも」なのかという問に繋がりますが、それは、水原自身の家族や同胞への思いが、軍隊という国家組織や「愛国心」という「大きな正義」に「包摂」されたときに生まれた「歪み」(「人間の当たり前から外された」〈不条理〉)故に発せられた言葉だったと考えられます。もちろん、こうしたことは、女性の結婚や出産などに関わる差別的な社会的風潮の中で悩み、また、「歪んだ」大義を振りかざす戦争という巨大な暴力によって〈右手〉を奪われたすずについても言い得ることでしょう。しかし、すずはこうした「歪み」に負けず、「普通」に「当たり前」に生きて行こうとする強さを持っていたのです。そして、いうまでもなく、こうした一人一人の「ふつう」で「当たり前」な生活が〈歪められる〉ことに真正面から向き合い、「当たり前に」〈怒り〉そして〈抵抗する〉ことが、「個の尊厳」と「基本的人権」を基底的な価値とする「民」主主義の原点だと言って良いと思います。さらに言うならば、〈国家〉イデオロギーとしての「愛国心」のレベルにおいては〈国家〉間の「戦争」は根底的に批判し得ず、それは、こうした「個の尊厳」に基づく一人一人の「基本的人権」・「平和的生存権」の視座によってこそ可能と思われるのです。いうまでもなく、「一般ピープル」は、差別し、暴力を振るう存在でもあります。しかし、それを乗り越えるのも「一般ピープル」の「普通」で「まとも」な人々なのだと言えるのではないでしょうか。

 ○「そんとな暴力に屈するもんかね」(すず) 

  この言葉は、広島が被爆した後、空飛ぶB-29の編隊を見つめながらすずの口から発せられた言葉です。また、すずは、敗戦の詔勅を聞いた後、「この国から正義が飛び去っていく じゃけえ 暴力に屈するという事かね それがこの国の正体かね」とも言います。朝鮮半島やアジアの国々を暴力によって侵略し、そこに住む「普通」の人々の生活を破壊した「国家の大義」は脆くも崩れ去ったのです。それでは、いかなる暴力にも屈することのない、すずの「正義」とは何なのでしょうか。言うまでもなく、それは、「普通」で「当たり前」な人々の生活を基準とするものに他ならないと考えられます。そして、そうである限り、「面従」することはあっても、暴力に屈して虚偽のイデオロギーを受容することもなく、逆に、不条理な暴力を笑い飛ばし、さらに、どのような場所においても、「当たり前」に生きるために全力を尽くすのです。そこには、「普通」で「当たり前」な人々の意地と勇気さえ感じられるのです。

 ○「りんさんの事秘密じゃなくしてしもうた・・・これはこれでゼイタクな気がするよ・・・」(すず)  
   しかし、戦争や差別などの不条理に〈歪められた〉「普通」の人々は、悲しいこと、辛いこと、悔しいこと、恥ずかしいこと等々に悩み、苦しまざるを得ません。そして、私たちの多くは、閉塞的状況の中で、諦め、忘れることでその苦しみから「解放」されようとするのです。そして、リンの言う、記憶を秘密にして死んでいく事の「贅沢さ」とは、その究極的な表現とも言えましょう。戦争体験を一言も話さず墓場まで持っていくと語る元兵士たちの苦しみはいかばかりのことだったのでしょうか。しかし、すずが可能だったように、記憶を〈分かち合う〉ことも出来るのです。そして、そうした存在を身近に持つ事は最高に〈贅沢〉な事なのかも知れません。
   このアニメ映画に登場する呉の街並みは、当時呉に生きていた人々の記憶を掘り起こし、その「かけら」を寄せ集めて再現したものだと聞いた事があります。世界の片隅で生きる「普通の」人々がその記憶を世代を超えて分かち合う事の大切さ、これもこの映画を見て感じたことです。私が流した涙の質は、直接戦争を体験はしなかったものの、戦争を生き延びてきた親世代の体験を聞きながら育った私たちが、そんな親世代の想いを分かち合い、心寄せることによって生まれてきたもののようにも感じられました。

   13日(火)沖縄で2機のオスプレイが事故を起こし、15日(木)には国際的にも国内的にもほぼ「最悪」のアベ=プーチン会談が行われました。ここでも、私たちは、〈国家の論理〉を〈私たちの普通で当たり前の論理〉によって乗り越えなければならないのだと感じました。

サロさんありがとう この世界の片隅で仲良くやろうや!
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『MEGA CRISIS 巨大危機』( 第1集・異常気象)を観て

「引き返せない」現実を前に何をどう学ぶのか
    ―――そして、脅威と闘うのは誰なのか?!




失敗を振り返り見て反省だね
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   ※先週の日曜日、テレビで『ガンダム・ユニコーン』(最終回・第22話)を見終わりました。仕組まれた「ニヒリズム」に支配されることなく「可能性」を信じて生きていくこと、そうしたことを〈メッセージ〉としていたようです。そして、昨日は、劇場版『逆襲のシャア』も見ました。娯楽作品にしようとするためだと思われますが、様々な心理的コンプレックスがはめ込まれていたようです。この後は、「2nd兄貴」から小説本(1)〜(3)を借りて読む予定です。まあ、「ガンダム世代」を理解するのには良い機会となるかもしれません。

   ところで、最近、とりわけ興味深く見たテレビ番組に『MEGA CRISIS 巨大危機〜脅威と戦う者たち〜 第1集 加速する異常気象との闘い』があります。先日も第2集(地震予測)を見ましたが、第1集の方に何か引っかかるものが感じられました。
   第1集は、とりわけ、スーパーセル(巨大積乱雲)がらみの大規模な落雷による電子機器類への被害、そして、北極圏の永久凍土融解による(二酸化炭素の10倍もの温室化効果を持つ)メタンガスの放出ということがポイントのようでした。ただ、私がどうしても引っかかったのは、科学者が繰り返し述べた「地球温暖化はもう引き返せないところに来ている」という発言に対してでした。事実はその通りなのでしょうし、それを前提として、どのような対策が立てられるのかを科学的に探求していくことが必要かつ現実的なことだ、ということもわからないではありません。しかし、この「前提」を改めて問い直してみることこそが、地球温暖化はもとより、より長期的な人類の未来にとって必要なのではないかと私には感じられたのです。

   と言いますのは、私は20年ほど前に、もうタイトルは忘れましたが「地球温暖化」に関するNHK・スペシャルを見てかなりの衝撃を受けているのです。その番組では、今私たちが直面しつつある巨大台風のことはもちろん、海面水位の上昇や砂漠化や飢饉など、これから現実化しそうな事柄が既定事実のように予測されていたのでした。さらにいえば、地球環境問題への警告はもっともっと遡ることができるのです。しかし、人類は、自然の中に生きるものとしての自覚を明確化し得ず、巨大な産業文明の「暴走」を「引き返すことのできない」ところまで許して来てしまったのです。科学者たちの警告や実際に被害を受けつつあった人々の叫びを前に、「人類」は―――科学者たちは、「エスタブリッシュメント」たちは、そして、「一般ピープル」は、一体何をしていたのでしょうか。

   もちろん、家庭での省エネから気候変動枠組条約締約国会議(COP)まで、これまでも様々な領域で様々な努力が積み重ねられてきています。しかし、結局、エネルギー多消費の社会・経済構造を転換させることはできず、「引き返すことのできない」ところまで来てしまったわけです。すなわち、必要だったのは、そうした構造に〈既得権益〉を持つ諸集団に〈公共〉的な規制をかけることだったはずなのですが、私たちはそうした〈公共〉的世界を作りだすことに失敗しているのです。もちろん、私たちは、「狭い」日常生活を送る「一般ピープル」ではありますが、こうした人類の生存すら脅かしかねない「地球規模」の問題に適切に対処することなしには、私たち自身を守ることもできないのです。そして、「分業」を前提として、そうした対応を「専門家」や「政治エリート」たちに任せてしまうことができるのならば「楽」なのですけれど、「科学者」たちにしても、「政治家」たちにしても、「個」としての彼らの〈力〉には限界がありますし、また、既存の体制を支配する「エスタブリッシュメント」たちのあのあまりにもお粗末な有様を見ていると、やはり私たち「一般ピープル」自身がしっかりして、「政治」を変え、脅威と戦っていかなければならないのだと強く思うのです。そうでなければ、また、同じことの繰り返しです―――それにしても、辺野古に関する福岡高裁那覇支部の判決はひどいですよね!まあ、ああやって出世していくのでしょうけれど。また、築地の卸売市場の豊洲移転に関する石原元知事や都の役人たちの「嘘つき」体質もすごいですよ。また、「権力政治」観の中で、ただ只管〈緊張〉を激化させながら国内統合と軍産複合体の利益を増進しようとする「安保村」の連中の腹の中も見え見えということでしょう。

   何しろ、このままでは、未来を生きていかねばならない若者達、そして、これから生まれてくる子供達が気の毒すぎるように感じられます。つまらぬ政治屋による統合(「ポピュリズム」)に乗せられてはいけませんが、私たち「一般ピープル」こそ、「脱政治化」してはならず、社会全体への関心を高めて、私たちの命と生活を守るため、私たち自身の「公共」を作っていく必要があるのだと思うのです。


  【追伸:つぶやき2つ】

  ◯地球温暖化による異常気象の被害のうちこれから特に心配なのが世界的規模での飢饉です。それでなくても食料自給率の低い日本。TPPなど正気じゃないでしょう!

  ◯蓮舫・民進党の幹事長が野田なんだって?!何考えているのだ?信じられない!

『 ロッキード事件』と『とと姉ちゃん』について

ロッキード事件は未解決である!
  「日米の巨大な闇」そりゃ、あの「ライン」でしょう?!

 

   ※我が「農園」の夏野菜もほぼ終わりに近づきました。それにしても、今年の春から借りることになった土地に深く根を張るあの凄まじい葦たちには、敢え無く「降伏」する他ないようです。通りがかりの方々からも「絶対勝てませんよ!」と忠告されていたのですが、私一人で「かれら」を制圧するには年を取り過ぎているようです。無念です(`o´)!
   無念といえば、最近の尋常とは思われない国内外の社会状況を見ると、同様の想いがひしひしと胸に迫ってきます。とりわけ、参院選後のアベ政権による沖縄〈いじめ〉とそれを許している本土の人間たちの「心の〈闇〉」を考えると、心底、嫌気がさしてきます。もちろん、「安心して年をとることもできない」私たち高齢者の現状も、「安心して働き、結婚し、子供を育て、生活することもできない」若者たちの現状も、根を同じゅうすることは明らかなことです。それにしても、こうした状況を許している、人間を人間たらしめるはずの〈感性〉の「劣化」は どのように生み出されてきたのでしょうか。


   ところで、先週、NHKスペシャ『未解決事件「File.5 ロッキード事件」』(第1〜3部)を観ました。この番組は、元首相が逮捕され有罪判決を受けるという戦後最大の疑獄事件=「ロッキード事件」の「全貌」を探ろうとする意欲作でした。とりわけ興味深かったのは第3部でしたが、まずは、見逃した方々のために、【番組内容】をHPから転載しておきましょう。

 「今からちょうど40年前の1976年7月。首相経験者が逮捕されるという前代未聞の展開となった「ロッキード事件」。事件には今なお、多くの謎が残されている。
  ロッキード事件とは、米・ロッキード社製の旅客機トライスターの売り込みをめぐり、日本の政財界に巨額の賄賂がばらまかれたとされる事件。ロッキード社の代理店・丸紅を通じ田中角栄前首相に5億円が渡ったとされ、田中前首相は逮捕。裁判の一審二審で有罪判決を受けた。しかし、捜査にあたった東京地検特捜部が「重視」していた、“戦後最大のフィクサー”、児玉誉士夫のルートは解明されなかった。児玉が知っているとみられた21億円もの巨額のカネの行方は、闇に葬られたのである。
  事件から40年。事件の実相を知るための第一級の資料が次々に発掘されている。NHKは、特捜部の極秘ファイルや関係者たちの証言をもとに、数奇な展開をたどった事件の詳細な舞台裏を映像化。捜査の指揮を執った故・吉永祐介主任検事らの姿などを、実録ドラマでよみがえらせていく。
さらに、アメリカ側から発掘された内部資料や、元米政府中枢への取材から、冷戦時、アメリカの世界戦略の中において、ロッキード事件が果たした知られざる役割、歴史的スクープをドキュメンタリーで浮かび上がらせる。」

   もう皆さんもお気付きのことと思いますが、ここで語られている「ロッキード事件」の〈全貌〉とは、通常、私たちがこれまで抱いてきた事件のイメージとはかなり違ったものです。すなわち、「ロッキード事件」とは全日空の旅客機導入に関わる田中角榮による5億円の収賄事件だと受け取られてきたのですが、今回明らかにされた東京地検特捜部の極秘ファイルや日米の関係者たちの証言から想定される事件の「真相」とは、主に、アメリカからのP3C対潜哨戒機導入に絡まるものなのであり、そして、そうした意味において、21億円という巨額の金が動いた「児玉ルート」の解明こそが問題の核心(闇)だったということなのです。

   実は、これまで私が見聞した限りにおいても、いわゆる「ロッキード事件」とは、あくまでもアメリカからの情報提供によって引き起こされた事件なのであり、そうした意味で、アメリカ政府による全世界的な同盟国諸政府に対する「クリーン・ナップ作戦」の一環であったとか、あるいは、日中国交回復などアメリカとの関係に一定の距離を置こうとした田中角榮に対する懲罰的なものだったとか、様々な説があったのです。ドラマの中でも、東京地検特捜部主任検事の吉永祐介が、アメリカからの情報を前に、「試されているのか、誘導されているのか?」と述べている場面がありましたが、彼の言葉はそうした可能性を示唆するものと考えることもできるでしょう。さらに、そうした田中角栄に対する動きが事実であったとすれば、日本国内にも、田中角栄と「競争」関係にあった、アメリカ政府(−CIA)と緊密に結びついた政治家たちの存在が十分考えられるのです。そして、そうした彼らは、 CIA のエージェント(工作員)であったという児玉誉士夫と非常に仲の良〜い「お友達」(同じCIA のエージェント?!)であったことは間違いないでしょう。

   ところで、児玉誉士夫は、当時日本国内で持ち上がっていた対潜哨戒機の国産化という計画に対抗し、アメリカのロッキードP3Cの導入を推進するアメリカのエージェントでした―――そうした意味で、小型飛行機による児玉邸への自爆攻撃はそうした児玉の「国賊」的動きへの批判であったのかも知れません。そして、その工作の詳細はわからないにせよ、兎にも角にも、中曽根康弘らによって提唱されていた国産化計画は消え失せ、P3Cの導入が決定して行ったのです。もちろん、そうした流れの中で児玉の21億円が大きな働きを為したことは想像に難くありません。そして、その金を受け取ったのは、丸紅ルートと同じように、田中角栄(グループ)だったのでしょうか、それとも・・・それが問題なのです。

   いうまでもなく、〈外交〉政策は、主権者たる国民からもっとも遠くのところで、一部の「権力者」たちによって、秘密裏に決定され実行されていく傾向を強く持ちます。しかし、最近のアメリカの公文書公開などによって、その有様が次第に私たち日本国民にも知られるようになってきています。沖縄の人々を苦しめている(アベの祖父である岸信介らによって締結された)「日米地位協定」やその背後にある隠された「密約」、そして、沖縄返還協定時の(造船疑獄では法務大臣の指揮権発動によって救われた、アベの大叔父である佐藤栄作による)「密約」などです。そして、いうまでもなく、こうした現在にも繋がる「安保村」の主要な潮流こそ、これまでもCIA との緊密な関係が様々に報道されてきた(時間があれば、ちょっと検索して調べてみてください)、岸信介のグループに他ならないのです。そして、その岸と児玉との深〜い関係を否定する人はいないはずです。というわけで、私はこの番組を見ながら、戦後の政治過程の真っ黒けな有様を改めて想像したり、また、なるほどアベはそうした〈対米従属〉の流れをさらに加速させようとしているのだなあと、これまた、暗〜い気持ちになったのです。―――それにしても、甘利問題をはじめ、最近の検察・特捜部の有様は「ロッキード事件」を担った先輩検事たちからも批判される程のひどさです。困ったものです。

   
   ところで、毎日ではありませんが、私は朝の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』も観ています。そして、貧しくはありましたが、ある意味で、夢と人間らしさに溢れた戦後の時代を懐かしく思い出したりもしているのです。実際、我が家では『暮しの手帖』を定期購読しており、私も毎回楽しみに読んでいました。私のお気に入りは(確か滝平二郎の?)「影絵」の物語や清水一の家の設計図でした。他にも、家電などの商品テスト、そして、暮らしのアイディアなどを興味深く見ていました。最近の番組の例でいうと、母は(普段着ではありましたが)直線縫いのような服を着ていましたし、また、余った布切れやボタンなどを大切に保存もしていました。また、私も、りんご箱やみかん箱に綺麗な包装紙を貼って机や本箱として使った覚えもあります―――でも、木箱には隙間があって貼った紙がそこだけ破れてしまうのですよねえ。家はまさしく物置のようでしたが、何か暖かいものがあったように記憶しています。しかし、昔を懐かしむようじゃあ、もう、先が見えていますよねえ(笑)。

「晴耕雨ブログ」―――『夢の江戸歌舞伎』を読む

   江戸の歌舞伎小屋に思いをはせる
       ―――江戸の一般ピープルの〈ハレ〉の場



夢の江戸歌舞伎


   ※今朝、小雨の中サロさんと散歩をしたら眠くなりました。一眠りして、目が覚めたらもう雨が止んでいました。「さて、畑仕事か!」と思いましたが、畑の方は、5月のサツマ芋の植え付けを残してもうやってしまったので、久しぶりに、徒然なるままに、ブログを更新することにしました。お付き合いください。

   さて、私は4月生まれなのですが、今年の「誕生プレゼント」は〈餃子30個〉と〈絵本〉でした。餃子の方は、私が「一度〈飽きるまで〉食べてみたい」と言ったので、それを実現してくれたわけです。お馴染みのCO-OP餃子でしたが、もちろん、十分満足しました。また、絵本の方は、最近私が浄瑠璃や歌舞伎の本ばかり読んでいるので、写真にもある『絵本・夢の江戸歌舞伎』(服部幸雄文・一ノ関圭絵、岩波書店、2001年)を贈ってくれたのです。

   この絵本は、文化文政期の江戸・中村座に見習いに入った少年が「顔見せ興行」の様子を自ら体験しつつ紹介するという形で書かれています。服部さんも示唆していますが、江戸時代の歌舞伎は、現代のような(ある意味で)「お上品」で「文化」的な性格のものではなく、芝居が大好きな役者をはじめとする芝居小屋関係者全員と様々な階層の観衆が一体となってつくりあげる、非日常的で、祝祭的な、もっともっと楽しく面白いものだったようです。それは、芝居小屋の構造そのものにも表れていて、その様子をたくさんの人々の姿と共に緻密にイラストで表現した一ノ関さんの「職人」的情熱にも感服せざるを得ないところです。「ウオーリーを探せ」的な楽しみもありましたが、さらに、立体的に見える「3Dアート」的な処理がなされたらどんな風に見えるだろうなどとも想像しました。故中村勘三郎が「(平成)中村座」を再現しようとした気持ちもわかるような気がします。

   また、この絵本は、その劇場空間を中心とした、巻末の「解説」と「絵注」がとりわけ秀逸で、細かい字で大変でしたが、三日間、熟読してしまいました。それは、舞台上の演技や脚本に焦点が当てられている『歌舞伎十八番』(集英社)などとはかなり異なった印象を与えるもので、「演劇」の本質的な魅力が奈辺にあるのかをを改めて考えさせられるものでした。私は、還暦を過ぎてから見始めた歌舞伎や浄瑠璃に触発され、当時の人々の感じ方や考え方をより明確に知りたいと思い、「日本〈古典〉文学全集」の関連する作品群を読み進めてきました。しかし、この絵本に出会うことによって、(とりわけ演劇ファンだとかお祭り好きであったというわけではない)私のそうした動機が、かなり「主知主義」的な傾向を持っているだろうことに気付かされたのです。確かに「日本〈古典〉文学全集」は面白いです。しかし、それが実際に演じられ、人々が楽しんだ演劇空間の方がより本源的なものなのだろうと思うのです。大切なことを教えられました。素晴らしい絵本です。


『百日紅(さるすべり)〜Miss HOKUSAI〜』を観て

〈江戸の庶民〉の何が魅力的なのか?
 ――「屈折」する心の豊かさ



   ※先週の月曜日、病院帰りに映画を見てきました。原恵一監督作品『百日紅〜Miss HOKUSAI〜』です。きっかけは、『東京新聞』の夕刊で、「庶民息づく江戸鮮やかに・・・浮世絵師、葛飾北斎の三女で優れた絵師だったお栄を軸に、町人たちが息づいた江戸の町と暮らし、粋な風俗を味わわせてくれる」という記事を目にしたことでした。映画を見終わって帰宅すると、一足先に映画を見てきた「姉貴」が、「原作も読んでみる?」といって、杉浦日向子『百日紅(上・下)』(ちくま文庫)を貸してくれました。「変な人だよ」と言いながら渡された本を読んでみると、『コメディーお江戸でござる』で時代考証の解説をしていた杉浦さんとはかなり違った印象がありました。また、原作では其の二十八「野分」でちょっと顔を出すだけの北斎の末娘猶(なお)が、映画では、彼女とお栄そして北斎との関係が物語を貫く一つの重要な軸として設定されいて、原作とは一味違った印象を与えていると感じました―――もちろん、これは、大衆受けを狙ったというだけではなく、〈北斎の死生観や生活意識〉を〈当時の世相〉との関連で浮かび上がらせる、脚本家丸尾みほ氏の読みと手腕の冴えとも言えるでしょうけれど。

   ところで、先月、両国橋を背に隅田川沿いを歩いたことをブログに書きましたが、この映画は、まさしく、その隅田川にかかる江戸時代の両国橋のシーンから始まります。それは浮世絵にも描かれた大きな立派な橋で、その上を渡る江戸の人々の姿が生き生きと大変印象的に表現されていました。また、全編を通して見られる巧みな光と影(闇)のコントラストは、私の生活体験からも理解できそうな〈懐かしい時代〉を感じさせてくれます。このように、こうした映像表現についての興味も尽きないのですが、今回は、映画に登場する〈江戸庶民〉に対する感想を述べてみたいと思います。

   まず、主人公お栄と北斎の印象から述べておきましょう。はじめに、お栄ですが、彼女は絵を描くことが根っから好きな天性の「絵描き人」なのですが、特に功名を求めるでもなく、父北斎の「ゴーストライター」として「淡々」とした生活を送っています。また、彼女は、”大江戸版tomboy”ともいうべき「侠気心」に富んだ女性で、女ではありますが、「めんどくせえ」・「まあいいか」とかいった言葉に象徴される「江戸っ子」の理念型のごとき性格をもつ人物として描かれています。これに対して、「こちとら葛飾の百姓よ そんなに江戸っ子がえれえんなら・・・」と言う北斎は、〈世事や人情〉にも通じた〈職人気質〉をも持つ天才絵師で、娘お栄にとってもただならぬ存在なのですが、一方、〈命〉に対する過剰なほどの敏感さや執着心、〈病〉や〈死〉に対する嫌悪感、すなわち、ある意味での〈あきらめの悪さ〉を持つ人物として描かれていると言って良いと思います。そして、こうした二人と関わる北斎の弟子たちや江戸の庶民たちの〈風俗〉、そして、時代を感じさせる「怪奇譚」などにあらわれる彼らの「心象風景」を通して、江戸庶民の〈生活意識〉や〈人生観〉が表出されていくというわけです。

   ところで、杉浦さんは、彼女が「江戸人」と呼ぶ江戸市民の精神を、「明るい絶望感」、「絶望に近いほど明るい、そういった湿り気のなさ」と表現し、それに強い共感を示しています。また、杉浦さんは、この精神を「日本人の精神的なニュートラル・ポイント」―――おそらく、〈政治〉に距離を置き「極端」に走らず、思想的にはどっちもどっちという「相対主義」をとる、そんな「普通」の人々の立ち位置―――として極めて積極的に評価しています(『江戸へようこそ』)。そして、こうした精神の「前衛」的担い手が、趣味に生きるディレッタントたる「通人」であり、彼女が生まれ変わるならこれと決めている「若旦那」(「大平の逸民」たる道楽息子)なのです。そして、杉浦さんは、こうした〈精神〉の文学的・思想的バックグラウンドを山東京伝や平賀源内などの「戯作」に求めたというわけです。
   このように、杉浦さんの「江戸人」とは、当時世界一の大都市だった、爛熟した〈文化文政〉期の江戸市民(とりわけ、商人や職人)なわけですが、そうはいっても、職業や階層、地域や性別など様々ですから、それらの人々の生き方・考え方をひとまとめに語ることは難しいことでしょう。そこで登場してくるのが、「江戸人」を「粋(いき)」という視角で種別化した「通人」・「半可通」・「野暮」といった区分です。これらについては前掲『江戸へようこそ』をフォローしていただければと思いますが、ただ、私が興味・関心を有するところの、社会を実体的に支えている生活者・生産者たる「一般ピープル」は、この「野暮」に分類されるのです。しかし、杉浦さんによれば、この「野暮」も、「通人」に憧れ、それを受容し、支える「通人・予備軍」と把握される存在であって、こうして、我が「一般ピープル」も「粋の構造」に包摂されることになるのです。杉浦さんは、こうした「江戸人」を次のような調子で説明しています。

 ◯江戸では、頑張るは我を張る、無理を通すという否定的な意味合いで、粋じゃなかった。持って生まれた資質を見極め、浮き沈みしながらも、日々を積み重ねていくことが人生と思っていたようです。
 ◯「江戸人は、この無名の人々の群れです。このような人生を語らず、自我を求めず、出世を望まない暮らしぶり、いま、生きているから、とりあえず死ぬまで生きるのだ、という心意気に強く共鳴します。」 
 ◯「自分が没落しようと、乞食になろうが、それを自分で請け負って楽しむぐらいの気概がないと。『社会が悪いから失業した』じゃ、江戸はやれないですよ。」
 ◯「貧乏というと悲惨で暗いイメージしかありませんが、江戸人の貧乏は自分で選択した貧乏なんですよ。私たちが考えているような貧乏とは質が違うんですよね。」 
 ◯「仕事に追われるということがないので、その分楽しみがたくさんあったんでしょうね。・・・粘り強くなく、飽きぽい性格で、仕事が嫌いな人ばかり。」
 ◯「出世すると責任もついてきて面倒くさいですよね、いろいろ。九尺二間(四畳半一間)の長屋でゴロゴロして毎日なんとかごはんだけは食べて、あとは遊んでいる方がいいやと思っていたんでしょうね。」
         ―――以上は、『粋に暮らす言葉』(イースト・プレス)より引用

   ここで語られている「江戸人」は、大店の主人や若旦那ではなく、江戸市民の多数派たる「下層」の人々のようですが、それらの表現から、「江戸人」と現代の「フリーター」や「非正規雇用者」との共通性を連想する人もいるかもしれません。さらに、その存在が昨今の新自由主義的な「自己責任」論に似た形で理解されていると感じる人もいることでしょう。江戸庶民をこのように把握すること自体が正しいのかどうかは留保せざるを得ないところですが、そこで描き出された人々が私にとっても非常に興味深い存在であることは確かです。
   ところで、私にとって、『百日紅』に登場する江戸の「庶民」は、必ずしも明るい存在というわけではありません。彼らは、どちらかというと、どこか心の奥底に「闇」を抱えているような存在と感じられるのです。しかし、私にとっては、それがかえって大きな魅力の一つであって、彼らがそうした「闇」(絶望感)を感ぜざるを得なかった〈生活の有り様〉とはどのようなものだったのかとか、また、それらに対して彼らがどのように反応し、あるいは、自己をどう意識したのかなどは、私にも無関係のこととは到底思えないのです。もちろん、私のような〈無粋〉な〈田舎者〉にとっては、杉浦さんが『江戸へようこそ』や『大江戸観光』などで抽出した「江戸人」の〈精神〉には「違和感」すら感じさせるものも少なくありません。例えば、その「刹那的で」かつ「諦めの早い」(気ままで、がんばらない)、そして、ちょいと「プチブル」的な生活感覚は、否定的に感じられないでもありません―――「金にものを言わせながら、花魁にモテようと、〈粋〉に遊んで悦に入っている、『欲望自然主義』のエロオヤジに興味はない。」という、今は亡き京都出身のH君の言葉を思い出したりもします。それでは、私が江戸の民衆(「一般ピープル」)に感じた魅力とは何だったのでしょうか。それを説明すると以下のようになると思います―――もちろん、それは、杉浦さんにとっては非常に〈陳腐〉で、つまらないものであるのでしょうけれど。

   すなわち、私が彼らに感じた魅力とは、貧しく、単調で、先の見えない「闇」を抱えながらも、その中で精一杯〈自由〉や〈独立〉や〈平和〉を求めながら暮らしている姿、言い換えれば、支配者や権力者によっては「包摂」しきれない「生活」や「思想」における〈自立性〉を保持しつつ生きているその在り方そのものにあると思われるのです。「てやんでえ」〜「べらぼうめ」といった言葉に表される、さっぱりとした嫌みのない、弱きを助け強きを挫く、イキでイナセな「江戸っ子」の心意気とは、そうした在り方の一面を表すものといえると思います。そして、こうした在り方を支えているのは、やはり、〈自由〉や〈独立〉や〈平和〉を当然のものとして希求し続ける、「諦めない」・「諦めきれない」、彼らの「抵抗」や「反抗」や「反骨」の〈精神〉だったと思うのです。つまり、心が押しつぶされる様な・生きている方が辛い様な・ただ祈るしかない様な、恐怖や憎悪や自己嫌悪などの心の「闇」に直面しつつ、いかに権力や権威に盲従することなく、それらを処理し、生き続けていくことを選択していくのか、それが根っこにある志向性だったと思うのです。こうした観点によってこそ、歌舞伎や浄瑠璃で演じられた支配的・体制的「建前」への「前衛」的な〈反逆〉と、それに涙し、喝采を送った庶民の心情も理解できるのだと思います。また、「本気にならない」・シャレた遊びの精神などの色街の「論理と倫理」も、抜け出したくとも抜け出せない「身の上」を前提としつつ、「通常」の恋愛感情とは異なる金銭を媒介とした性的関係を如何に精神的に合理化し、「耐えることのできる」つまり「自尊心」を維持しえる程度のものヘとディフォルメするかという心の働きが生み出したものかも知れません。そこには、遊女の人間としての「抵抗」・「反骨」の精神が表れているとも言えるのではないでしょうか(もちろん、たくさんの男からチヤホヤされたい〈遊び好き〉の女性が考えたものかもしれませんが)。さらに、こうした関連において、江戸庶民の心をとらえた「怪談」や「奇譚」などは、彼らの満たされぬ、抑圧された〈欲求〉や〈良心〉、〈不満〉や〈恐怖〉の〈想像力〉溢れる表現だったとも考えられるでしょう。
   私のこうした捉え方に対して、杉浦さんは、「江戸人」の〈絶望〉と〈明るさ〉を媒介するものとしての「諦め」(「思うことかなわねばこそ浮世」)と「無用の贅」(本質的でないところに価値を見出す)を強調しています。それはパリの庶民の”C'est la vie!(これが人生さ)”という感覚と共通性を持つようにも思われますが、そもそも当時の江戸は「将軍のお膝元」として、白いご飯や蕎麦を食べ酒を酌み交わして、芝居や落語を楽しむといった経済的・文化的な豊かさを享受していたわけで、本心では満足できないものの、そこそこの現状で良しとして(あきらめて)、《屈折》した形をとりつつも、結果的には〈現状〉を肯定し、〈体制〉に順応していくというのも理解できないわけではありません。ただ、問題なのは、こうした様々な《屈折》そのものへの自己評価、より直裁にいえば、「野暮」で「堅気」であること――「本質」的なものを本気で求めること―――の「価値」に対する認識あるいは評価であったのではないでしょうか。このことは、なぜ「野暮」が色街でモテたのかとか、なぜ任侠道は堅気の衆に迷惑をかけてはいけないのかとか、なぜ『七人の侍』は村人を体を張って助けたのかとか、そういった問題にも連なるのです。そして、こうした民衆の「野暮」・「堅気」に対する肯定的な把握と評価なくしては、封建的な経済外的強制と身分制的イデオロギー(例えば、「分」を守りなさい)という権力の「野暮」に対抗する民衆の《屈折》も、結局、権力と同質の論理に落ち込んでさらに暴力的で悪質なものになったり、それを〈能天気〉に支えるものになってしまうしかないのだろうと思うのです。

   私は、「一般ピープル」の生活にとって、政治的・宗教的イデオロギーよりも「分業」・「協業」・「相互扶助」といった関係における「信頼」・「信用」の方がはるかに大切で、この点において信頼できるならば、政党支持や宗教そして国籍などは関係ないと思っています。もちろん、だからと言って、「一般ピープル」が全ていいなどということではありません。その侵す過ちや間違いは数限りなく、深刻でもありうるからです。しかし、結局のところ、こうした「野暮」で「堅気」の「一般ピープル」が、自らを解放していくことがなければ、基本的な問題や課題は解決されないだろうと思うのです。「一般ピープル」が、その基本的な必要を満たし、「個」として、その在り方に胸を張り、自由に平等に人間らしく生きていくことができる関係を実現していくこと、そうしたことを〈諦めずに〉追求していくこと、そういった志向性が根底において見失われてはならないと思うのです。

   「江戸っ子」といえば一般的には一心太助や銭形平次などを思い浮かべるでしょうが、私個人としては、「蒲田のおばさん」を思い出します。この人は私が最初に「東京(江戸)の人だなあ」と感じた人で、下町言葉ではありませんでしたが、何しろ早口の、フレーズの短い「東京言葉(江戸弁?)」を話しました。物事にあまり拘泥しないカラッとした性格で、また、結構様子を見ているくせに突き放したような無関心さを装うといった面もありました。生活は至って簡素で、余計なものは意識的に持たない、下着の数も必要最小限度といった感じの人でした。和服姿も渋く「粋」でしたが、彼女が私の「江戸(東京)女」の理念型と言って良いだろうと思います。

神田明神下の銭形平次とか
DSC_2910.jpg



   ※サロさん!映画の中で、国直が橋の上で踏んづけたのは、サロさんのような赤犬のフンだったのかねえ? 
   ―――今は「フンはお持ち帰りにしてね」だけど、江戸時代じゃ、あちこちにあったんだろうね。今じゃ、ニャンコの天下だけどね。Hahahaのha
  
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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